2014年12月4日木曜日

経済的奇跡

東南アジア諸国の工業化が本格化したのは一九八〇年代に入ってからのことであった。この時期、第二次石油危機により彼らの主要輸出先であった先進国経済の全体が低迷し、一次産品市況の停滞と世界的高金利がこれに重なった。その帰結として東南アジア諸国は経常収支の大幅な赤字化、対外債務の累増、財政赤字の巨額化に見舞われた。輸入代替から輸出志向に転じる構造転換はまったなしの状況となった。そうして保護主義的諸政策を転換するための一連の規制緩和がこの時期に開始された。

東南アジア諸国は政府の経済介入を抑制し、民間企業の活力と市場メカニズムを発揚させることによって資源配分の非効率性向上を狙った。この政策転換には高い評価が与えられねばならない。政策転換の過程で日本とNIESの投資が集中するという幸運にも恵まれ、その工業化は本格化した。一九八〇年代後半期以来の円高ならびにNIES通貨高により、東南アジア諸国工業製品の相対競争力が強化された。のみならず、日本・NIES企業の対東南アジア諸国投資が集中的に発生した。東南アジア諸国の輸出はこれにより一挙に増加した。NIESにつづく東南アジアの経済的奇跡の到来である。

東南アジアの政治システムはしばしば「開発独裁」と呼ばれ、「権威主義開発体制」と称される。確かにそういっていいであろう。植民地独立闘争を勝利に導いた軍・政治エリートがその実績を背景に強力な指導力を発揮して有能な官僚テクノクラート集団を創成し、後者に経済建設のための権力と威信を集中してことにあたらせた。このテクノクラートの作成した開発計画に向けて、企業家、労働者、経済資源を動員していくという集権的な開発体制がNIESはもとより東南アジア諸国でもとられた。

東南アジア諸国の政策転換能力の高さはこのテクノクラートの能力の高さを反映する。開発政策における試行錯誤がテクノクラートに豊富な経験とノウハウを蓄積させ、彼らを鍛えてきたのである。本章に収められているのは、長らくその発展の可能性に懸念がもたれてきた東南アジア諸国がいかにして今日を築いたのか、その発展の態様ならびに発展をもたらした政策や体制、さらには国際環境などについての著作に関する私の評である。東南アジア諸国の政治、経済、社会の矛盾について論じている著作もあるが、それらも矛盾のゆえに東南アジア諸国が停滞しているといった主張ではなく、発展の結果とした新たに生まれた矛盾についてのものがほとんどである。

顧みてこのことは画期的である。序章でも指摘したようにアジア論といえばすなわち停滞論だというのがつい先だってまでのことだったからである。停滞論の代表作を記しておけば、「構造の緩やかな社会論」「ソフトステート論」(ミュルダール『アジアのドラマー諸国民の貧困の一研究』一九七四年、板垣興一監訳、東洋経済新報社)、「小型家産制国家論」(矢野暢「東南アジアを解く小型家産制国家の理論」『中央公論』一九七九年三月号)のごとくである。

時代はやはり大きく変わったのだといわねばならない。後れて発展への胎動をみせているインドに関する著作への評も本章で掲載した。東南アジアについて論じた私の著作としては『成長のアジア停滞のアジア』(一九八五年、東洋経済新報社)、『アジア経済の構図を読む』(一九九八年、日本放送出版協会)などを参照されればと思う。一九九七年七月以降の東南アジア通貨・金融危機については別に論じる。

2014年11月5日水曜日

成長の時代に定着した日本型賃金慣行

このように見てくると終身雇用という観念は通念として流布はしていても、それを支える制度もまた実態も確立してはいない事が明らかである。そして終身雇用といえるような長期安定雇用を維持しようとするならなんといってもその基本的条件は経済成長であり、また労働力の人的資本の価値である事が明らかであるといえる。

そうであるとすれば、いわゆる終身雇用的な雇用のあり方をこれからも維持してゆくためには、単に雇用調整を抑制するのではなく、むしろ新たな雇用需要を創出するような経済成長や生産構造の改革を進め、人々が新たな技術に対応できるよう人的投資によって人的資本の価値を高めてゆく事が基本となる。そしてまた、適材が適所に配置されるよう労働市場の情報ネットワークを整備し、適切な流動化を進める事を政策の基本に置かねばならないだろう。こうした政策的課題については最終章で詳述することにしたい。

日本企業の賃金慣行には大別して二つの際立った特色がある。ひとつはいわゆる年功賃金であり、いまひとつは春闘による年々のベースーアップすなわち賃上げである。この両者はともに戦後、とりわけ前述の高度経済成長時代に日本の産業界にひろく普及し定着したものである。以下、この二つについてその中身と、それがなぜ高度成長の時代に定着することになったかをたしかめておくことにしよう。

まず、年功賃金である。年功賃金は賃金が年の功によって上昇する賃金という事である。勤労者が企業内で経験を積むにしたがって賃金串が高くなってゆく賃金体系である。勤労者が同じ企業に勤めている限り、勤続年数がふえると同時に年齢も高まるから、同一企業に定着している労働者にとっては年齢とともに賃金が上昇してゆくようにも見えるが、基本的には勤続年数にしたがって賃金がふえる。中途採用者の場合には年齢が高くても勤続年数が少ないから賃金は低い。企業外での経験年数が考慮される事も多いが、それも通常はあるていど割引かれて加算される。

2014年10月4日土曜日

患者の意向を代行する

「ちょっと手をあててくれたら、やすまるかもしれないのに手あてという言葉がなくなったというけど、うんこういうことなのねと思った」先端医療機器がハバをきかす時代に生じるギャップ。発作はおさまったのに、ちょっと面白くない空気が、治療する側にもされる側にも残ってゆく。すき間風である。内視鏡検査のあと、やはり手術と決まった。手術日は入院して五十二日目の十月十九日。「切ればなおる。悪いところをとってしまえばいいのだ」と鳥海さんは前向きに考えたのだった。看護婦のAさんが烏海昭子さんの受持ちと決まったのは、手術が確定し、それまでの口腔外科病棟から消化器外科病棟に転入してきた十月初旬であった。

Aさんは勤続二十年をこえるベテラン。手術室をふり出しに主として外科系の病棟で働いてきた。少女のころは俳優志願だったという。実際に都内の小さな劇場の舞台に立ったこともある。生活を支えるために看護婦、演劇は余暇活動との二筋道を考えたが、演劇仲間は本職一本ヤリだ。本職派のなかで余暇派のAさんは孤立、結局看護婦の一筋道を歩むことになった。結婚は選ばなかった。一九五一年の生まれ、戦後世代である。Aさんの鳥海さんについての印象は努力か要りそうだの一語にまとめられるだろう。入院すると患者についての記録が日ごとに集積されてゆく。本人の氏名、性別、生年月日、住所、家族関係や職業の有無や具体的な暮らし、誰と同居しているかはもとより、とくに患者にとってのキーパーソン(経済的なことも含めてもっとも身近で信頼をおいているひとの意)の特定が、大事なこととしておこなわれる。患者の意向を代行するとともに、病院側の意向も伝えて、常に合意を形成し、変化に適切に対処してゆくために選び出されるのが、キーパーソンである。

こうした患者本人についての一定のプライバシーを含んだ情報のほかに、もちろん医師によるカルテ、検査結果、さらに病棟詰めの看護婦による患者の日常の観察記録(血圧、脈拍、体温、食事や排泄排尿、自立の度合い、投薬、処置とその評価が時々刻々記入される)や看護計画がつくられてゆく。ナースステーションの見やすい棚には、入院患者ひとりひとりの動静が分・時単位で記された分厚いドキュメントが保管され、そこに患者像が把握されている。Aさんが鳥海さんについて努力を要すという印象を持ったのは、他病棟に入院した時点からの各種の記録、カルテ、情報がそのモトになっていたわけだが、そこでの鳥海さんへの評価は、①ストレスが強く、②わがままで、③気むずかしい患者となっていたのだった。

記録のなかには、ひとつの事件が記されていた。仮にそれを結膜炎事件と名づけておく。鳥海さんは入院十三日目に、突然目がまっ赤になった。当時、病室には見舞いの花が続々とどけられていたのだが、そのうえ、ある民放TVの番組に出演を依頼され、録画どりの終わった直後というめぐりあわせで、TV局から大きな花かごがトーンと届けられた。とたんに鳥海さんは花粉症の症状よろしく、くしゃみと涙にせめられ、目はまっ赤に充血してしまった。折りあしく土・日がはさまり、眼科の診療を受けるまでにはそのままの状態で、まるまる二日過ごさねばならなかった。診察の結果、これは悪質なハヤリ目と診断され、ただちに隔離されることとなった。個室に隔離された。そこまではまあよかった。

個室の高額な請求書がすぐにとどいて、鳥海さんはバクハツした。ハヤリ目の診断の際「あんた、どっからこんなもの持ってきた? 潜伏期間は十日ですからね」と言われた。「十日前はすでにこちらの病院に入院しておりました」。憤然として言い返したが、ともかくなおすのが先決だから隔離された。請求書が怒りを倍増させた。「入院中にもらったハヤリ目でも、それは患者個人の有責事項になるのか。高い個室に隔離されてその部屋代まで請求されるとは、患者をふんだりけったりするのと同じではないか」折りしも講演の日程がきていた。検査だけの期間だから出かけたいという希望を持っていた。「こんな不誠実な病院にはもういられない。出してほしい。出してくれないなら窓からとびおりる」

2014年9月4日木曜日

バブルを演出したマルチプル

「将来企業が生み出すことになるキヤツシューフローを予想して、これをもとに企業の価値を算出し、株価を導き出す」という考え方は当然のことながら、企業とは生き物であり、将来も事業を継続していくということがベースとなっています。こうしたことからDCF法や収益還元法は、ゴーイングーコンサーン(Going Concern「生きたまま進む」との前提)に基づく企業評価と言っています。

これに対して、純資産株価は、静態的に今の時点での企業の価値を出すものです。これは、今、企業を清算して個々の資産に切り売りしていった場合、いくら残るかという清算価値に近いものになります。「将来を予想して決める。現在の静態的な価値によっては決定しない」株式を評価する時のこのスタンスは、実はわれわれがものごとを決める時の考え方につながるようなところもあります。

たとえば、外資系の投資銀行に勤めていますと、よく若い人の進路についての相談を受けることがあります。このまま投資銀行を続けていこうか、あるいは転職しようかといった悩みを同じ会社の若い人から持ちかけられることも多いのですが、なかには取引先の企業の幹部の方からの相談もあります。「うちの息子が就職先として役所に行くか、外資系かで迷っているので一度会って相談にのってやって欲しい」といった内容です。

若い人が悩む一つの要因は会社によって年収が違うことです。行きたい先の年収が高いとは限りません。たしかに就職先(あるいは転職先)を決める際、そこが当初いくらの年収を払ってくれるかは重要なファクターです。しかしもっと重要なのはそこであなたがどれだけ能力を磨くことが出来、実力を高められるかです。その結果、あなたの将来の年収は大きく変わってきます。

私白身、外資系に移ると決めた時、外資系企業四社からオファーを受けました。結果的には「保証年収」という条件だけで見ますと一番低いところを選びました。一番高く条件を提示してきたところの約八分の一でした。ただし、面接の時には上司に当たる人とこの点だけは確認しました。「この提示された数字はあくまでも最低限であって、実績を上げたらきちんと年収も上げて欲しい」

2014年8月7日木曜日

バブル景気の罪と罰

その第一に、銀行などの金融機関が土地や株の購入に対して行った巨額の融資が不良債権、つまり返済不能になったことだ。金融機関は、自己資本の一定倍率までしか資金貸し出しができない。その倍率を、国際業務を行う銀行では五倍(自己資本比率八%以上)、国内業務だけを行う機関では二五倍(同四%以上)と定めている。

不良債権が増えれば自己資本は減る。従って銀行は急速に貸し出しを減らさなければならない。このため、九七年頃からは健全な企業からも返済を求める「貸し渋り」現象が拡がった。これでは、健全な企業も営業できなくなってしまう。資金は経済の血液だ。金融機関はその循環を司る心臓に当たる。日本経済は、その心臓の障害によって、貧血状態に陥り、枯死寸前にまで追いつめられた。それが九八年の大不況である。

バブル景気の第二の罪は、日本経済に対する楽観的な予測で過剰な施設を大量に造らせたことだ。オフィスビルやスーパーマーケットやホテルといった商業施設をはじめ、各種の工場やテーマパーク、リゾート、ゴルフ場までが過剰に造られた。ところが、予想したほどには日本経済は成長せず、バブルの崩壊とともに需要が減退した。

この結果、あらゆる分野に設備過剰ができた。使われないビル、引き合わない商業施設、操業率の低い工場、お客の来ないテーマパークやリゾートなどが全国に溢れている。こうした過剰施設は、企業や自治体に重い借金を残しただけではなく、新しい投資を抑え、長期不況と日本の設備の老朽化をもたらしている。

第三の罪は、コストの高騰である。土地の値段が二倍にも三倍にも上がったため、投資費用が嵩んだ。このため、「こんな高い土地に建てるのなら、設備の建設費は少々高くとも大したことはない、銭を惜しまずやれ」という風潮が拡がった。土地の値が一〇〇億円もするのなら、そこに建てるビルの建設費が一〇億円でも二〇億円でも大した差ではない、という感覚に陥ってしまったわけである。

2014年7月17日木曜日

BURの内容を見直す

一九九五年には冷戦後の世界における、米軍各部隊の役割を明確にする研究としてCORMが実施されたが、BUR(ボトムーアップーリビュー)作成から四年近くが経ち、その間に世界環境も変化し、一方では、米国防予算はBUR作成時よりもっと厳しい状況になってきたため、米議会は一九九七年度国防予算の支出権限法に付属する条件として、BURの内容を見直すことを米国防長官に義務づけた。その結果が一九九七年五月一五日に米国防戦略の「四年次見直し(QDR)」としてウィリアム・S・コーエン国防長官の名で議会に提出され、五月一九日に公表されている。

この報告書の内容が公表される前段階における予測の中には、BUR時に大きな可能性として予想された湾岸戦争規模の地域紛争は、その後発生せず、当面イラクに相当するような強大な軍事力を持って米国と敵対するような勢力ぱ見当たらないところから、BURよりもさらに大幅な米軍事力の削減が行われ、二つの大規模地域紛争に対応でき、勝利できる態勢を保持するという、いわゆる「ウィンーウィン(ヨミヨロ)」戦略が放棄されるのではないかというものもあったが、結局後述するように、この二つの大規模地域紛争対応能力の維持は妥当な戦略として残された。

ではどこがBURと異なるのかといえば、きわめて単純化して結論的に述べれば、BURの基本戦略は維持するものの、先端技術、特に情報関係の技術を駆使することにより、BURで定められた米軍戦力(兵員数や兵器、部隊の数)よりも少ない数で所要の任務が遂行できるとされ、あらだな削減によって生み出された経費を新型装備、兵器の開発、調達に振り向けるというものである。

ここでは、米国で一九九三年頃より盛んに言われるようになった「インフオメーションーウオーフェア」と、それを構成要素の一つとして、さらにセンサーや通信などの情報技術そのものと、精密誘導兵器やスタンドオフ型攻撃兵器などの新型兵器を組み合わせて実現されるはずの「軍事における革命(RMA)」における、米国技術と軍事力の優越性維持が強調されている。

2014年7月3日木曜日

独立戦争期の政治の特徴

戦況が日本に不利となるなかで、民心の離反を防ぎ軍政への協力を確保する狙いから将来の独立が約束され、一九四五年三月に「独立準備調査会」が設置された。スカルノが建国五原則(パンチャシラ)を提示しだのは、調査会の会議の席上であり、現行の一九四五年憲法の草案もこの調査会での討議によってまとめられた。四五年八月一五日に日本が降伏すると、青年たちの激しい突き上げを受けてスカルノとパックは一七日に独立を宣言し、翌一八日には憲法を公布した。インドネシア共和国の誕生である。しかし、連合国とオランダはこれを承認せず、独立が国際的に認知されるまでの四年あまりの期間、独立戦争が戦われなければならなかった。

独立戦争期の政治の特徴と、これがその後のインドネシアの歩みに与えた影響としては、次の点を指摘しておきたい。戦前に禁止された共産党、国民党の復活も含め、イスラム系のマシュミ党、社会民牛王義の社会党(PSI)など多くの政党がこの時期に結成された。しかし、独立戦争さなかのことで選挙は実施されず、正常な議会政治は行われようがなかった。四五年憲法には内閣についての条項はなく(この点は日本の旧憲法に似ている)、行政府の長としての大統領に強い権限が与えられていた。

とはいえ、実際には独立戦争期にも首相に率いられる内閣が設置された。独立当初はスカルノ大統領自身が内閣首班を兼ねたが、四五年一一月からは社会党の指導者であったシャフリルが首相に就任した。以後、独立戦争が終結する四九年末までに、シャフリル、アミルーシャリフディン(社会党)、パック(副大統領兼任)、シャフルディンープラウィラヌガラ(フソユミ党)の四人が交互に内閣を組織した。この時期に内閣のリーダーシップをとったのは、主に社会党、次いでマシュミ党の指導者たちであった。

戦前の蘭印車または日本の義勇軍での車務経験片を中核に、人小多数のゲリラ集団を糾合して作られたインドネシア車は、同じ時期に共産党の指導ドで解放戦争を経験したベトナム人民軍とはまったく対照的に、政党や内閣の統制がほとんど利かない辻車過程をホんだ。独に吠を目指してのオランダとの外交交渉は、Lにシャフリルなど社会党系の指導行たちによって行われたが、軍はしばしばこれに反発しか。そのため、丈民政治家に不祐感をもち独自の政治的役割を求めるというインドネシア車の体符的傾向がこの時期に形成された。

2014年6月18日水曜日

ミュルダールの誤謬

ミュルダールは、その大著『アジアのドラマ』(板垣興一監訳、東洋経済新報社、一九七四年)のなかで、「基本的な改革を制度化し社会的規律を強いる能力も意思もない」アジア諸国の政治体制に言及し、かかる体制下の国家を「ソフトーステート」と呼んだ。しかしこのような表現は、事実を正確に反映しているようにはみえない。NIESはいうにおよばない。ASEAN諸国もまた秀でた能力と権力をもつ経済官僚テクノクラートが、軍部・政治エリートの支持を背景に経済計画の立案と施行の中枢を占め、財閥系企業と外資系企業をこの計画に参画させつつ、急速な工業化をになってきたのである。

権威主義開発体制は、現在のASEAN諸国において、NIESとならぶもうひとつの具体的な事例を新たにつくりだしつつある。政権崩壊という事態にいたったマルコス体制といえども、その政権が「基本的な改革を制度化し社会的規律を強いる能力も意思もない」がゆえに発生した悲劇的終末では決してない。社会改革を強くめざしながらも、国際経済情勢と権力者の強引な経済運営が改革のシナリオを狂わせてしまったがゆえの悲劇なのである。

長期にわたる植民地支配の時代にあって、近代的工業発展の基礎的諸条件を剥奪されてきたASEAN諸国が急速な工業化をめざす以上、植民地独立戦争の過程で近代的組織運営能力を身につけた軍部・政治エリートが開発の主導権をにぎり、彼らが育成したテクノクラートと協働して経済近代化を運営したのは、自然であった。

ASEAN諸国の場合、企業家的職能を有していたのは長らく華僑・華大系住民以外にはなく、「アメとムチ」をたくみに使ってこの華僑・華大系企業を開発の直接的なにない手とし、さらにまた華僑・華大系企業を導入した外国企業の合弁先としてきたのも、いたし方ない。政府が経済近代化の資源をしだいに蓄えていくとともに、国営・公営企業が華僑・華人系企業や外資系企業とならぶもうひとつの主役となっていったのであるが、これも民族系企業が不十にしか育成されてこなかったASEAN諸国にとっては他に選択肢のない方途であった。

2014年6月4日水曜日

薬物療法

WHO・国際高血圧学会の高血圧症治療ガイドラインによれば、最高血圧が一四〇~一六〇かつ、または最低血圧が九〇~一〇五で合併症がない場合は、生活習慣の調整を三ヶ月から半年ぐらいつづけて経過をみます。そのうえでなお血圧が一定レベル以上ある人については、血圧降下(降圧)薬を使うことになります。最高血圧が一六〇以上、最低血圧が九五以上か薬を開始すべきレベルです。ただし、この数値はほかに危険因子がなく、血圧だけ高い場合です。糖尿病や高脂血症をもつ人、家族に高血圧症や心臓、血管系の病気の人が多いなどの危険因子がある場合には、それよりすこし低いレベル、最高血圧か一四○以上、最低血圧が九〇以ヒであれば降圧薬の適応となります。

いま使われている降圧薬の種類は、利尿薬、交感神経抑制薬、血管拡張薬、β遮断薬、カルシウム拮抗薬、アンジオテンシン変換酵素阻害薬(ACE阻害薬)、a遮新薬の七グループに大きく分けられます。それぞれのグループに属する薬剤もたくさんあります。そのうちのどれを最初に使うかは、医師のそれまでの経験によって選択がなされているのが現状です。

現在の降圧薬は六〇~八〇%の患者さんにはきちんと血圧を下げる作用を発揮しますが、残りの人たちには降圧効果かないか、あっても不十分なことがあります。普通二週問から一ヵ月降圧薬を服用し、一つの薬で効果が不十分な場合は、量を増やしたり、べつの薬に変えたり、作用のちがうほかの薬を併用したりします。

高血圧症の患者さんの約半分は、一つの薬だけで血圧のコントロールが可能です。三剤併用すれば八〇%以上、併用の仕方によってはほぽ一〇〇%の患者さんの血圧をコントロールできるのが普通です。最近は血圧の下がりすぎに注意する必要があるくらい、降圧薬が非常に進歩しました。

現在最も多くの患者さんに使われている降圧薬はカルシウム拮抗薬です。カルシウム拮抗薬(ニフェジピン、商品名アダラート)はドイツのバイエル社で開発され、はしめは心臓の薬として使われていました。

2014年5月22日木曜日

東独経済の破綻が深刻化

東独地域で予想を超えた規模での破談、が進行するなかで、西独地域では逆にインフレ圧力、が強力化してきた。まず第一の圧力は国内流動性の大幅な過剰創出であった。東独マルクが過大評価されて西独マルクへ切り替えられたため、当初から流動性過剰が見込まれてした。実際、通貨同盟の発足前における統一ドイツのM3ペースの流動性の増加状況の試算をみると、実質的な交換レートが一対二近くとなった。

だが、現実のM3は二割を超える著増となった。第二に、予想外の過剰創出となった国内流動性は、東独での西側製品に対する強烈な渇望を満たす動きと重なり、大幅な雷要の盛り上がりとなって出てきた。そして第三の圧力は、貢要増が言凧に増大するなかで、西独経済がフル稼働の状況下にあったことである。

日本と同様、西独も八五年秋のプラザ合意の後、金融面からは強い景気拡張効果を受け、長期の拡大局面にあった。これに東独地域からの大幅な追加的需要増加重なってきた。このため、生産設備の増強に向けて未曾有の投資ブームに拍車がかかることになった。こうした状況下では、国内でのインフレ圧力示顕現化するとともに、輸入増を反映して対外収支が大幅な悪化をみることになった。

東独経済の破綻が深刻化するなかで、匹独経済にインフレ圧力を課することになったもう一つの重大な要因は、財政面からの需要拡張効果であった。表は財政収支の状況をみたものである。再統一の前年となった八九年における西独の財政赤字は八〇億マルクにすぎなかった。

だが財政赤字は九〇年に四六〇億マルクへと拡大に転じた後、統一の影響か全面的に表面化した九一年には一〇八〇億マルク、そして九三年には一三四〇億マルクへと膨張した。九三年の財政赤字の対名目GNP比は五%に近づくほどになった。いうまでもなく、これはどの財政赤字はドイツにすれば空前の規模であった。

2014年5月2日金曜日

戦後日本人は頑張った

わずか半世紀前の敗戦直後は、ほんとうにひどかった。食べるものもなくて腹を空かすのが惨めなことは、言うまでもない。だが、ただそれだけではなかった。敗戦それ自体のショックがあり、敗戦に伴って、価値が一八〇度変わってしまったことが、ほんとうにつらかった。いったい何を信じて生きればいいのか、子どもはもちろん、大人たちにもよくわからなかった。学校の先生たちも、どこか投げやりだった。

その当時のエピソードとしていまもしばしば語られるのは、教科書の(アメリカ占領軍から見て)不適切な箇所を、墨で塗りつぶして消したことである。中学一年生だった私は、もちろんそれを経験した。新しく持ち込まれた民主主義が、教室で教えられた。私は、民主主義とは、いちおうはけっこうなものだとは思ったが、心からすばらしいとは思わなかった。民主主義の時代だというわけで、遠足の行き先まで生徒の投票で決め、「天の川」という票が出たこともあった。民主主義とはその程度の(いい加減な)ものだという感じは、いまも私の心のどこかに残っている。

何年ぶりかでアメリカ映画が入ってきて、現代劇を見ると、当時のアメリカ人の生活が手に取るようにわかった。民主主義とちかってこちらのほうは、ほんとうに夢のようにすばらしかった。私たち日本人も、いつの日かあのような生活ができるのだろうかと、私は時に考えた。「たぶんそんな日は永遠に来ないだろう」と考えて、妙に悲しかったことを、いまもはっきりと覚えている。当時、名古屋郊外の国道一号線で、キャッチボールをして遊んだ経験が、私にはある。モータリゼーションのいま、信じられないような話だが、モータリゼーション前は、車の数がそれほど少なかったのである。

それが、あっという間にアメリカに追いついてしまった。巨大都市の住宅のように、アメリカに見劣りする点も若干あるけれども(それにしても、アメリカの「郊外」の住宅は、いささか広すぎるのではないか)、治安がよくて夜も安心して一人歩きできることとか、商店のサービスのよさ・きめこまかさとか、社会の平等性など、日本のほうがいい点も考慮に入れて総合的に判断すると、日本の生活がアメリカにはるかに及ばないなどとは、いまやとうてい言えないだろう。つまり、大筋において、日本はアメリカと肩を並べた。

2014年4月17日木曜日

問題多い養護学校の義務制化

福島県、とくにいわき市におけるウソのよう痙ポンドの話である。だが、いわき市の現状は、この国にあって決して特異的なものではない。むしろ典型的なものと考えるべきだろう。いわば、教育矛盾の集中的表現として、いわき市が存在しているといえるのである。「障害」児にも教育を受ける権利を保障しようと、一見美しい言葉によって、五十四年度からスタートする養護学校義務制化。しかしこれは、普通の学校で学びたいという子を「障害」児と決めつけ、養護学校という名の牢獄に送り込むためのアウシュビッツ型制度ではないのか。一九七一年六月、中央教育審議会は、「今後における学校教育の総合的左拡充整備のための基本的施策について」と題する答申を行なった。その左かで、「特殊教育の積極的な拡充整備」にも言及していたが、これが、養護学校義務制化の、直接の出発点であった。

答申を受けた政府は七三年十一月。「学校教育法中養護学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関すふ施行期日を定める政令」を公布。そこでは「学校教育法第二十二条第一項に規定する養護学校における就学義務並びに同法第七十四条に規定する養護学校の設置義務に関する部分の施行期日は、昭和五十四年四月一日とする」と述べられていた。ここで展開されている骨子は、「就学させる義務」と「設置義務」とであるが、これらについては、学校教育法のなかに明文化されている。つまり保護者の「就学させる義務」は、その子女が満六歳に達したときに生じ、満十五歳まで続く。就学させるべき学校は「小・中学校ないし盲・聾・養護学校の小・中学部のいずれか」であるとされている。一方、「設置義務」では、小・中学校は市町村に義務があり、盲・聾・養護学校は都道府県にある、と規定されている。

この学校教育法は一九四七年(昭22)三月三十日公布され、同年四月一日に施行された。「盲・聾・養護学校における就学義務および設置義務に関する部分の施行期日は政令で定める」とされ、それらの就学・設置義務の実施は一時的にペンディングとされた。そして、盲・聾学校の小学部は四八年四月から、同中学部は五四年四月から施行され。残ったのが養護学校(小・中学部)であった。これが七九年(昭和54)から施行されることに痙ったわけである。この間、文部省では「養護学校設置七年計画」(七二年-七七年)、「特殊学級設置十年計画」(七二年-八一年)、「特殊教育諸学校幼稚部学級設置十年計画」(同)を着々と進行させ、これらによって、中教審答申にある「特殊教育の拡充整備」はほぼ完了する、としている。

七一年当時、二百六十一校(生徒数約二万三千人)だった養護学校は、七五年五月には三百九十六校(約三万三千人)に増加しており、養護学校義務化が実施される直前の七八年度中には五百四校(約六万人)にふくれあがる予定になっている。事実、七一年に約二万一千人いた不就学児童が、七四年には約一万五千人に減っている(文部省調べ)。おそらくは、この間に増設された養護学校に就学したものと考えられる。ところで、この「昭和五十四年度養護学校義務制化」に対して現在、全国各地で「障害」児、教育労働者、市民、学生らを主体とする反対運動が幅広く、繰りひろげられている。養護学校義務制化とはいったいいかなる事態を意味するのか、また。「障害」者やその支援団体はいかなる論理で、これに反対しているのか。

そのことを、ただたんに現象的に見るだけでは座く、問いかけの内実を、具体的に考えていく必要がある。そのことが、この世の中に充満する「障害」者差別思想と、それを支える教育体制を打破する契機となり得るに違いないからである。「障害」児の権利奪った教育の歩み。養護学校義務制化に対しては、「各地に養護学校がたくさんできるから、従来、就学猶予・免除にされてきた子どもも教育が受けられるようになる」とか、「養護学校ができたら、その子の能力に応じた教育が受けられる。たんなる教育権ばかりか、実質としての学習権も保障される」という、肯定的な受けとり方もある。むろん、そのような側面もまったくないわけではないだろうが、問題を総体としてみれば、そのよう左肯定面はむしろ、付随的なものといわざるを得ない。