2013年12月25日水曜日

大学の設置認可

例えばゴーマンーレポートもその種のランキングの一つで、一九六七年以来、何年かごとに大学ランキングを発表している。これは学部課程レベル、大学院レベルに分けて、主としてアメリカの大学の質、すなわち、その大学の支援基盤、管理、教育プログラム、設置年、教授団、学生、入学水準と履修要件、学生サービの質、財政、図書館の質などを学問分野別、総合別に数値化し、その得点順に大学の順位を並べたものである。このコーマンのランキングは評価の基準も方法も曖昧で専門家からは″まゆつば”ものと断罪されているのだが、いったん有名になると一人歩きを始め。高校生や父兄の大学選びにはかなりの影響力を及ぼしているのは、日本で猛威をふるっている受験産業の偏差値による大学ランキングの場合とそっくりである。

そもそも大学や学部学科の質などというものが測定できるのか、ましてやアカデミックな価値の序列化などは可能なのか。こういう疑問が出てくるのは当然だが、アメリカではともかく大学の評価は現実に広く行なわれており、かつ社会にとっても必要不可欠なものとなっている。大学が原則として設立自由であり、法的な規制も緩く、誰もがそれぞれの目的に応じた大学を気楽に作れる社会では、きわめて多種多彩な大学が生まれ、その形態や質を画一的にコントロールすることは不可能である。

したがって大学受験生や父兄は進学校を選ぶために、政府は大学への予算や補助金を配分するために、一能用者は大学卒業生の質を予想するために、なんらかの評価の尺度を必要とする。実際正規の基準認定を受けているものだけでも三三〇〇校もの大学・短大がひしめいている社会(基準認定を受けていない高等教育機関を加えれば一万校を超えるというようでは、どうしても大学のよしあしを決めることが必要になるのである。

アメリカでは大学の設置認可は州政府の権限とされており、州によってその設置の法的規制が厳しいところと、きわめて緩いところとがある。一般に大学や短期大学などの高等教育機関の設置認可は、二つの段附を経て行なわれる。まず第一は、大学は非営利の法人でなければならず、したがって州の非営利法人法に規制される。これがいわば日本でいう学校法人としての認可にあたる手続きであり、一般にチャータリングと呼ばれている。

しかしこのチャータリングの段階では、その大学はまだ一人前の大学とはみなされておらず、いわば暫定的な″営業許可”を得ている状態にすぎない。その大学が″カレッジシティ″の名称で呼ばれ、かつ学位(准学士、学士、修士、博士)を授与する資格のある大学となるためには、もう一つ上の段階の認可が必要となる。

2013年11月5日火曜日

伝統文化の位置づけ

ブータンの近代化は、近代化すなわち西欧化という観点から、明治維新の文明開化のかけ声の下に、暦、医学、服装といった生活の根幹をなす分野まで、一〇〇〇年余にわたって築き上げられてきた自国の伝統を棄て、西欧化しようとした日本のそれとは、まったく好対照である。ブータン政府は、近代化の初めから、ブータンの国としてのアイデンティティの源泉であるユニークな伝統文化を守るという立場がはっきりしており、そのために公式の場での民族衣装着用の義務とか、公私を問わずすべての建物における伝統的建築様式・意匠の遵守といった法的措置も講じられている。

たとえば暦は、現在でも伝統的なブータン暦とグレゴリウス歴(太陽暦)が併用されている。ブータン暦は、日本の旧暦同様、月と太陽の両方の運行を考慮に入れた太陰太陽暦である。国民の大半が農業に従事し、仏教徒であるブータンでは、農作業も、お祭り・法要など仏教的性格の年中行事も月の満ち欠けと深く関わっている以上、月の運行が考慮されていない、それ故に日付と月齢が対応していない西洋暦では、実生活に役立たない。たとえば、ブータン各地でもっとも盛大なお祭りであるツェチユ(一〇日)祭は、その名のとおり月の一〇日、すなわち月齢が一〇日の日に行われる。

その日はブータン暦では必ず月の一〇日に当たるが、西暦では月のどの日に当たるかが、年ごとに、月ごとに異なり、暦からはツェチユ祭がいつになるのか見当がつかないという不都合が生じる。その他、日の吉凶、運勢といった今でもブータン人にとって重要な事柄は、すべてブータン暦に基づいて算出されている。それ故に、日常生活では今でもブータン暦が用いられ、西暦を用いている諸外国とも関わる公式行事(たとえば、一二月一七日の建国記念日)とかはグレゴリウス暦が用いられているが、いずれの場合も、両者が併記されている。医療に関しても、西洋医学と伝統的な医療の双方が行われている。古来ブータンは「薬草の国」として知られているだけあって、生薬による治療が普及している。

伝統医学は、高血圧、消化器障害、アレルギー、リューマチ、不眠症といった症状にはことのほか効き目があり、免疫性を高めるのにも優れているが、外科手術はなく、様々な急性疾患とか伝染病には無力である。現在のブータンの医療政策の注目すべき点は、こうした伝統医療の長所と限界を認識した上で、伝統医学と近代西洋医療を統合させようとしていることである。たとえば、急性アレルギーの患者に対しては、ドゥンツォ(伝統医学の医師)は詳しい診脈、尿および血液の検査をした後、まずは抗ヒスタミン剤による短期治療のために西洋系の逆症療法を施す病院に委ね、その後患者を再び呼び戻して伝統的生薬による長期治療を施したり、数日間の湯治を勧めたりする、といった具合である。

第四代国王の四人の王妃の一人ドルジエーワンモーワンチュックは、本書の冒頭で引用した『幸福大国ブータンー王妃が語る桃源郷の素顔』の中で医療に関して、こう述べている。「先進国の逆症療法を基本とした西洋医学を施す医師たちも、伝統的な植物性・動物性生薬に蕎づく伝統医療にたいして同じような柔軟な態度で臨んでくれたらすばらしいことでしょう」西洋医学と、その他の文化圏での様々な伝統的医療(たとえば漢方とがインドのアーユルヴェーダ医療)の融合という点で、ブータンはまさに模範的な例である。

2013年8月28日水曜日

沖縄にやってくる観光客の多くは団体客

沖縄の人たちは、二〇年ほど前まではもっぱらバスを利用していたが、補助金で道路を集中的に整備したこともあって、自家用車保有台数が急激に伸びた。そこへ、稲嶺知事時代にレンタカーを一気に増やしたことが重なり、那覇は慢性的に渋滞するようになった。余談だが、現在、沖縄のレンタカーは、シーズンオフで二万台、シーズン中だと四万台と言われ、約五〇〇〇台と言われるタクシーに比べたらものの比ではない。これだけ増えると、自動車会社から新車の試乗をしてもらおうと売り込みに来るそうだ。そして、一年ほど乗ったら東南アジアなどに売り払うために、県内は常に新車が循環するようになっている。

そのうえレンタカー会社が乱立し、過当競争のあげく、一〇〇〇CCクラスなら一日二〇〇〇円を切るところもあらわれた。観光客にすれば下手にタクシーに乗るより安あがりというわけで、レンタカーの需要は急増しているそうである。水不足や交通渋滞だけではない。電力不足もそうだ。沖縄には「沖縄電力」という、沖縄県のみに電力供給を行う会社がある。かつて沖縄を占領した米軍から余剰電力を提供してもらっていたが、琉球列島政府ができると琉球電力公社が設立された。復帰後、これを母体に衣替えしたのが沖縄電力である。離島が多いせいか、沖縄ではほぼ一〇〇%近くを火力発電に頼っている。原子炉は最低でも発電能力が八〇万キロワットと巨大なため、需要を軽くオーバーしてしまうから使えないのだ。

ただ、需要が右利上がりで増えていて、五〇万キロワット程度の小型原子炉ができたら、導入するつもりのようである。むろん一九八六年に起きたチェルノブイリ原発のような事故が起きたら、沖縄本島は一瞬にして消滅するだろうが。観光客を1000万人に増やすということは、ただ増えるだけではない。さまざまな問題も抱え込むということなのである。沖縄へ来る観光客の単価を上げるためには、どうすればいいか。観光客を増やしたいというのは、手っ取り早く言えば、もっとお金を落としてほしいということだろう。それなら、数を増やすよりも、観光客一人当たりが使うお金を増やせばいい。もはや観光事業は「数」でないことは常識で、こうしたことは、沖縄県が編集した資料の随所にも出てくる。

かといって宿泊料金を上げれば観光客は減るだろうし、「もっと買ってくれ」と叫んだところで、魅力的な商品がなければ簡単に財布を開けてはくれない。「単価を上げる」ことはわかっていても、どうやって上げるかが悩みの種なのだ。沖縄県が調査した資料によると、観光客一人が消費する金額は七万円強のようだが、これを九五年と〇四年を比較してみると約一万七〇〇〇円も減っている。観光客は増えたが、カネを遣わなくなったのである。沖縄県は、この消費単価を増やせとやっきになっているが、その効果はまだ霧の中である。

沖縄にやってくる観光客の多くは団体客である。彼らは本土のツーリストに金を払い、本土の飛行機で来島し、本土資本のホテルに泊まるから、彼らの落とすカネのほとんどは本土の企業がかっさらっていく。そのうえ予定されたテーマパークをピンポイントで移動するから地元にカネが落ちない。極端なことを言えば、沖縄は労働力とおみやげで稼いでいるのである。これは県内の観光地にも影響している。北部の本部町に、入館者が年間三〇〇万人をこえる「美ら海水族館」があるが、役場は築数十年の、今にも倒れそうな建物だ。雨漏りがひどいが、建て替えるお金もないらしい。なぜお金がないのかというと、米軍基地がないことと、観光客がお金を落とさないからである。

「美ら海水族館」があるじゃないかと言うと、「あれは国の施設だから、本部町には税金が落ちないんです」と役場の人は言った。たしかに本部町にはこれといった施設はないが、それを差し引いても、悲しいかな本部町にはほんとうに観光客が流れてこない。観光客は「美ら海水族館」を見ると、次は「やんばる亜熱帯園」へと、点から点へ移動するからである。観光客にとって、本部町は存在しないも同然なのだ。本部町住民にすれば、金を落とさない観光客は排気ガスをまき散らし、ゴミを捨てていくやっかいな存在に映る。こんなことが起こるのも、沖縄の観光は団体客に支えられているからだ。




2013年7月4日木曜日

アジア全体で始まる生産年齢人口減少に備えよう

高齢化率なる、高齢者の絶対数を総人口で割った数字の上昇ペースは少々は緩和されますが、高齢者の絶対数の増加には一人の変化も起きませんので、高齢者福祉や医療関連の負担の激増にも一円の違いも生じません。これまた率ばかりみて絶対数をみないマクロ経済系思考の人の一部が陥りやすい過ちです。加えて相対的に低所得の労働者を増やすということであれば、税収や年金財政にもたいした好影響は生じないでしょう。外国人受け入れは、少子化に伴う現役世代減少への対策には(多少なりとも)なりえますが、有効な高齢化対策にはならないのです。

以上のようなご説明にもかかわらず、「中国から移民は来るだろう」と漫然と考えている方もおられます。彼の地で劇的に進んでいる少子化をご存じないわけです。〇〇年当時の統計ですが、中国の一〇-一四歳の子供は一億三五〇〇万人(ほぼ日本人と同数ですね)、それに対して〇-四歳の乳幼児は六九〇〇万人。つまり六万人近く、率にして四五%もの少子化か九〇年代に進んでいたのです。次の調査は今年(一〇年)なのですが、この間の経済発展↓出生率低下を考えますと、恐らくさらに劇的な乳幼児の減少が起きているでしょう。中国研究者からの伝聞ですが、上海の場合ですと出生率はもう〇・六五、日本で一番出生率の低い東京都のさらに三分の二以下の水準だというのです。孫世代の人口が祖父母世代の九分の一になってしまう恐るべき状況です。

一人っ子政策が遅れて効いて来たわけですが、いまさらそれを撤回すればいいというわけではありません。〇〇年当時の一〇-一四歳が出産適齢期にさしかかってきた今はまだ子供も多いのですが(彼らの数が多いので今は大学卒業生も余っています)、〇〇年当時の〇-四歳が出産適齢期にさしかかる二〇年後以降には、親世代のドラスティックな減少が起き(その頃には大学卒人材も大幅な不足になります)、出生率如何にかかわらずさらなる出生者数の低下が不可避だからです。他方で、若者が下放された六〇年代後半の文革期に生まれた非常に数の多い世代(彼らも一億二七〇〇万人とほぼ日本人と同数です)が、三〇年あたりから高齢者になっていきます。

数の多い今の若者が消費意欲旺盛な三〇代や四〇代前半になるその頃までは、中国の内需はまだまだいくらでも伸びますし、日本もそのおかげで潤うことでしょう。しかしその後の中国は、日本をはるかにしのぐスケールで、凄まじいばかりの人口成熟に突入していくのです。中国が移民を出すどころの騒ぎではありません、彼らが億単位で移民受け入れを必要とすることになるでしょう。その横では、日本の半腰のような受け入れ努力など吹っ飛んでしまいそうですね。インドは大丈夫だろうという方が多いですね。確かに当面、インドの生産年齢人口増加は続きそうです。ですが五〇年後はどうでしょうか。というのも、インドの〇一年時点の人口ピラミッドを見ると、五五年(昭和三〇年)時点の日本とそっくりなのです。

つまり、五-九歳の子供(五五年当時の日本の場合には団塊世代)がどの世代よりも数が多く、〇-四歳の子供はそれよりも少なくなっている。恐らくインドの近代史上初めての現象ですが、国が少々豊かになり始めたことで少子化か始まっているのです。「そんなのは続かない」という人もいるかもしれない。確かに昭和三〇年に「いずれ日本の人口は減る」なんて勇一言しても誰も聞かなかったでしょう。当時の日本はまだ食糧不足で、ブラジルに移民をどんどん出していた最中でした。でもその後の半世紀に、状況はすっかり変わりました。日本や中国ほど極端なペースになるとは思えませんが、私は大なり小なりインドでも少子化か進んでいくものと確信しています。

『生産年齢人口の減少を少しでも弱める

今後五年間に六五歳を超えていく団塊前後の世代だけでも一千万人以上います。これに対して、日本在住の外国人は不法在留者を足しても二二〇万人、団塊前後の世代の二割程度しかいません。これは在日韓国人・朝鮮人の六〇万人を含む数字なので、見た目で、あるいは話せば外国人とわかる人の数はそれよりさらに少ないわけです。ちなみに過去一〇年間の増加は留学生を含め六〇万人、毎年の増加は六万人というペースです。これに対し○五年から今年までの足元の五年間だけで日本在住の生産年齢人口は三〇〇万人以上減っているものと見られます。毎年六〇万人、外国人流人実績の一〇倍の速さです。さらにその後の五年間にはもう四五〇万人、二〇年先までだと一四〇〇万人、四〇年先まででは三二〇〇万人の減少を、社人研は予測しているわけですが、このレベルの減少を現在二〇〇万人少々しかいない外国人を急増させることで補えるものと、つまり年間六万人の増加を突然に一〇倍以上ペースアップさせることが可能であると、本気で考えている人がいるのでしょうか。

三年の間に今の外国人人口が倍増するというようなペースを延々と続けなければならないことになりますが、そんな数の人がどこから来るというのでしょう。住民の少子化を外国人で補っている代表的な国といえば、アジアではシンガポールです。居住者の三人に一人が外国人ですが、それでも絶対数では一七〇万人程度。上地に限りもありますので、計画では最大でも今の二倍くらいで打ち止めということになっています。そのくらいの絶対数であれば、そもそも英語も中国語も十分に通じる多民族国家で外国人も(日本人も)まったく違和感なく住める場所ですし、達成も可能でしょう。でももう一七〇万人程度では、日本では焼け石に水にしかなりません。団塊前後の世代の六分の一以下にすぎませんから。

オーストラリアも移民を受け入れていますが、そもそも総人口が二千万人少々しかいませんので、三年で二〇〇万人というようなペースでの受け入れなどやっておりません。移民受け入れに積極的なスウェーデンの例を参考にすべきだという議論がありますが、ここの人口は九〇〇万人ですから、仮に日本並みの年間数万人の流入でも効果は出ます。ですが絶対数で考えれば、一億三千万人近くが住む日本で進む、ゆくゆくは数千万人単位に及ぶ生産年齢人口減少を、補えるだけの外国人流人はありえないのです。「中国から来るだろう」という人がいるかもしれませんが、中国側の人口の事情で、それは天地がひっくりかえっても不可能です。もう少し先でご説明します。

「絶対数が合わないということはわかった。それでも『生産年齢人口の減少を少しでも弱めよう』と言うのであれば、労働市場の門戸開放はすべきだ」という方もいらっしやいましょう。ですが、そのコストは誰が払うのでしょうか。企業や農家は安価で優秀な労働力さえ手に入ればいいのかもしれませんが、移民の住居確保、子弟の教育、医療・福祉・年金面での対応、高齢両親呼び寄せへの対応など、さまざまな課題はすべて、公共部門に押し付けられることになりましょう。自動車産業地帯などでは現にそうなっているわけですが、歳入不足の自治体がこれに機動的に対応している例は少なく、大量の未就学児童が放置されているとも言われます。彼らが成人して貧困を再生産するようになれば、欧米のように、人種差別と階級間格差の結合した社会問題が、わが国でも深刻化していくことになりかねません。

外国人労働者は人権を有する人間であって機械ではありません。人間を迎え入れる以上、人間としての生活を送ってもらえるようにするためのコストはかかるのでありまして、そういうコストをかけずに外国人だからといってこき使うような地域は必ずモラル面から崩壊していきます。しかも彼らは相対的に低所得である以上、自治体などの負担はそれだけ重くなります。そういう自覚なく、安価な労働力獲得だけを求める企業は、社会へのフリーライダーとして批判されるべきでしょう。さらに皆さん、忘れてはいけません。仮に外国からの移民受け入れを増やすことでいささかなりとも生産年齢人口の減少ペースを緩和できたとしても、そのこととは一切無関係に高齢者の絶対数の激増が続きます。




2013年3月30日土曜日

名刺を出せる服装

二〇〇〇年五月の超音速旅客機コンコルドの墜落事故では、左翼エンジン附近から火を噴きながら離陸するカラー写真が世界中に配信されましたが、これは日本人ビジネスマンがたまたま持っていたカメラで写したものです。この写真は全米報道写真家協会の「ピクチャー・オブーザーイヤー」の一枚に選ばれただけでなく、朝日新聞社の「二〇〇〇年読者の新聞写真」の年間賞も受賞しています。

もちろん、事故や事件ばかりがニュースではありません。身近に起きためずらしいこと、変わった風景もまたニュースです。そうしたニュースを一刻も早く伝えることを使命にしているのが新聞です。カメラというもう一つの目を持ってさえいれば、誰でもそれに参加するチャンスがあるのです。そう思ってカメラを持ち歩いていると、普段は興味も関心もなかったものにも注意が向いてきますよ。

子供の頃から写真に興味のあった筆者は、高校生のときには、将来はカメラマンになろうと決めていました。できることならライフ誌のアルフレッドーアイゼンスタットやデビッドーダグラスーダンカンのような写真家になりたい、と大きな夢を見ていました。アイゼンスタットはライフ誌創刊当時からのスタッフで、奇をてらわない、誰にでも分かる写真を撮っていました。とりわけ人物の特徴をよく捉えたスナップ写真は、まさに神業としか思えませんでした。ダンカンは、一九五〇年に勃発した朝鮮戦争を日本製レンズで取材し、その優秀性を世界に知らしめたカメラマンです。

当時、彼らのカメラマン姿はとても格好よく見えたものです。写真で見るアイゼンスタットはいつも背広姿、ダンカンは戦闘服に鉄兜、カメラを小脇に抱きかかえるように持っていました。『ちょっとピンぼけ』(文春文庫)の口絵写真で見たロバートーキャパも、背広にネクタイ姿でカメラに向かって微笑んでいます。右手で頭を支えているのは少し酔っていたからでしょうか。女優のイングリッドーバーグマンを夢中にさせたというのも無理はないと思うほどの男前です。

彼らに憧れて筆者もカメラマンになりたいと思ったのですが、一つだけ不満がありました。学生時代の終わり頃、ある新聞社の中にあった外国通信社でアルバイトをしていたのですが、そこで新聞カメラマンたちを見ているうちに、卒業したら彼らといっしょに仕事をしたいと思うようになりました。ところが、あることだけには、どうしてもなじめなかったのです。それは、彼らの服装でした。記者会見にも助手として何度もついて行きましたが、新聞もニュース映画や外国通信社も、当時の日本人カメラマンはいずれもジャンパー姿で、申し合わせたように色物のシャツを腕まくりしていました。 昭和三十年代の初め、「太陽の季節」が映画化され「週刊新潮」が創刊された頃です。きちんとしたスーツ姿で仕事をしているライフの写真家たちと、色物シャツの日本人カメラマンとでは、あまりに落差が大きすぎました。

結局、昭和三十三年に出版社のカメラマンに採用されたわけですが、初任給の一万二千円から四畳半のアパート代四千五百円を引くと、一日あたり二百五十円しか残りません。写真部長はいつもネクタイに背広、ピシツと折り目のついたズボンの下にはピカピカの黒い短靴。「出版社のカメラマンたるもの、常にスーツを着て仕事すべし」というのが部長の厳命です。田舎の兄に泣きついたら、わざわざグレーの背広上下を持って上京してくれました。替えズボンだけはなんとか自分で買って、取っかえ引っかえはいて初ボーナスまでつなげたものです。