2014年5月22日木曜日

東独経済の破綻が深刻化

東独地域で予想を超えた規模での破談、が進行するなかで、西独地域では逆にインフレ圧力、が強力化してきた。まず第一の圧力は国内流動性の大幅な過剰創出であった。東独マルクが過大評価されて西独マルクへ切り替えられたため、当初から流動性過剰が見込まれてした。実際、通貨同盟の発足前における統一ドイツのM3ペースの流動性の増加状況の試算をみると、実質的な交換レートが一対二近くとなった。

だが、現実のM3は二割を超える著増となった。第二に、予想外の過剰創出となった国内流動性は、東独での西側製品に対する強烈な渇望を満たす動きと重なり、大幅な雷要の盛り上がりとなって出てきた。そして第三の圧力は、貢要増が言凧に増大するなかで、西独経済がフル稼働の状況下にあったことである。

日本と同様、西独も八五年秋のプラザ合意の後、金融面からは強い景気拡張効果を受け、長期の拡大局面にあった。これに東独地域からの大幅な追加的需要増加重なってきた。このため、生産設備の増強に向けて未曾有の投資ブームに拍車がかかることになった。こうした状況下では、国内でのインフレ圧力示顕現化するとともに、輸入増を反映して対外収支が大幅な悪化をみることになった。

東独経済の破綻が深刻化するなかで、匹独経済にインフレ圧力を課することになったもう一つの重大な要因は、財政面からの需要拡張効果であった。表は財政収支の状況をみたものである。再統一の前年となった八九年における西独の財政赤字は八〇億マルクにすぎなかった。

だが財政赤字は九〇年に四六〇億マルクへと拡大に転じた後、統一の影響か全面的に表面化した九一年には一〇八〇億マルク、そして九三年には一三四〇億マルクへと膨張した。九三年の財政赤字の対名目GNP比は五%に近づくほどになった。いうまでもなく、これはどの財政赤字はドイツにすれば空前の規模であった。

2014年5月2日金曜日

戦後日本人は頑張った

わずか半世紀前の敗戦直後は、ほんとうにひどかった。食べるものもなくて腹を空かすのが惨めなことは、言うまでもない。だが、ただそれだけではなかった。敗戦それ自体のショックがあり、敗戦に伴って、価値が一八〇度変わってしまったことが、ほんとうにつらかった。いったい何を信じて生きればいいのか、子どもはもちろん、大人たちにもよくわからなかった。学校の先生たちも、どこか投げやりだった。

その当時のエピソードとしていまもしばしば語られるのは、教科書の(アメリカ占領軍から見て)不適切な箇所を、墨で塗りつぶして消したことである。中学一年生だった私は、もちろんそれを経験した。新しく持ち込まれた民主主義が、教室で教えられた。私は、民主主義とは、いちおうはけっこうなものだとは思ったが、心からすばらしいとは思わなかった。民主主義の時代だというわけで、遠足の行き先まで生徒の投票で決め、「天の川」という票が出たこともあった。民主主義とはその程度の(いい加減な)ものだという感じは、いまも私の心のどこかに残っている。

何年ぶりかでアメリカ映画が入ってきて、現代劇を見ると、当時のアメリカ人の生活が手に取るようにわかった。民主主義とちかってこちらのほうは、ほんとうに夢のようにすばらしかった。私たち日本人も、いつの日かあのような生活ができるのだろうかと、私は時に考えた。「たぶんそんな日は永遠に来ないだろう」と考えて、妙に悲しかったことを、いまもはっきりと覚えている。当時、名古屋郊外の国道一号線で、キャッチボールをして遊んだ経験が、私にはある。モータリゼーションのいま、信じられないような話だが、モータリゼーション前は、車の数がそれほど少なかったのである。

それが、あっという間にアメリカに追いついてしまった。巨大都市の住宅のように、アメリカに見劣りする点も若干あるけれども(それにしても、アメリカの「郊外」の住宅は、いささか広すぎるのではないか)、治安がよくて夜も安心して一人歩きできることとか、商店のサービスのよさ・きめこまかさとか、社会の平等性など、日本のほうがいい点も考慮に入れて総合的に判断すると、日本の生活がアメリカにはるかに及ばないなどとは、いまやとうてい言えないだろう。つまり、大筋において、日本はアメリカと肩を並べた。