2015年3月5日木曜日

東西のホームの料金システムの違い

老人ホームといえば、もう一つ驚いたことがある。上の妹が大阪の自宅に近いホームのパンフレットを送りっけてきたとき、中身をみたら、毎月の経費は、たまに親たちをショートーステイさせる東京のホームにくらべるとやや安いが、そのかわり洗濯代はパンツー枚いくら、シャツ一枚いくらと、出した数に応じて別途請求する仕組みである。テレビは一〇〇円玉を入れれば何分間見られる、部屋の掃除代はいくら、トイレの掃除は別料金、とやたら細かい。逆に食費は、前日までに断ればその分だけ差し引く。

銀座の協会事務所でもらってきた関東一円のホームのパンフレットでは、例外なく、細々したものがすべて込みで、月極めいくらになっている。標準的な生活を想定して試算してみると、東京のほうが若干安くつく。なぜこんなにシステムが違うのか、親たちが利用するホームの事務長に電話して聞いたら、関西はこれがふつうなんです、という。

食わなかったのに食費をとるとは何事だ、と必ずクレームがつく。洗濯代を込みにしておくと、どうせタダならやってもらおうやないか、と見舞いついでに家から汚れ物をごっそり持ってくるのが現れる。

東京ではあまり細かいことをいうと嫌われる傾向があるが、関西、とりわけ大阪では、単価をつけていちいち積算しないと通用しないそうだ。同じ日本の中でこれだけ対照的なのは、ええカッコしいの東と、カネにシビアな西とて、いわば人生のレールの幅が違うからだろう。

だれが入居一時金を出すかによってホームに入る老人の尻の落ち着き方がまるで違う、という話は、自分で終の栖を設定することができる人生を送ってきた人間、自分の責任で自分の生涯の幕を引くことができる生き方をしてきた人間と、そういうふうには生きてこなかった人間との、対比の問題である。しっかりした責任感のもとでレールを走ってきたかどうか、という違いである。

超高級有名ホームでの入居者間の微妙なサヤ当ての話は、基本的に自己責任原理に立って生きてきた人たちの間でも、それまでの生活環境や生活感覚が、似通っていれば似通っているなりに、ズレていればズレているなりに、一つの終着駅に合流して暮らすのは容易でない、ということを物語っている。生活感覚とは人生の乗り心地のようなもので、少しでも感じが変わると、老人になればなるほど快適感が失われ不快感が募るのだろう。

東西のホームの料金システムの違いは、介護サービスにも風土性が色濃く反映する、という事実を示している。駅のホームで、東京にくると大阪人も列に並ぶが、大阪にいくと東京人も列をつくらず先を争って乗る。これは善悪以前の、上地の気風がにじむ流儀のようなものだが、老人になると身に染みついた流儀を変えにくい。行政にありかちな一律のサービス姿勢では、各地で摩擦が多発しかねまい。