2012年6月21日木曜日

こちら側も身を投げだしてそこに生きることを学ぶ

金城さんも書いているように、こちら側も身を投げだしてそこに生きることを学んでいかなければなりませんが、身を投げだしてこっちまで死んでしまったらなんにもなりません。こちらは生きていないといけないわけですから、そのあたりのかねあいも見失ってはいけないでしょう。

関係というものはだんだんにつくられ、そうした関係があるからこそ、しだいに深まっていきます。つまり、カウンセラーとクライエントと、二人で深めていくというところがあります。

しかし、相手によっては、こちらがはじめから非常に深いところに踏みだすこともあります。逆に、浅いレベルからゆっくりいこうとしているクライエントに対し、こちらからいきなり深いレベルで入ってしまうと、向こうはこわくなって、敬遠するようになります。

そういう人の場合は、浅いレベルから話を聴いていかなければならない。そうしたレベルの認識というものを、私たちはいつも心得ておく必要があります。これは、川寄さんが提起されたコミットの問題と似たところがあります。

たとえば、私たちがクライエントに、「箱庭つくりませんか」と言うのは、相手が二階から飛びおりるのを、こちらはなんとしても受けとめるということの決意表明でもあるわけで、箱庭をつくるというのは、それくらい重大な意味をもっていることなのです。

飛びおりさせておいて放っておいたら、相手は死んでしまいます。なにげなしに、「では、手はじめに、箱庭でもつくってもらいましょうか」などとやると、とんでもないことになります。

関係の場というのは、心理療法における基本的なステージであって、それを私たちは習練に習練をくり返して、できるようになっていかなければならないのです。

初心者の場合、まだ自分のもっているレベルが浅いので、クライエントとの関係の場も、浅いものにならざるをえないし、クライエントのレベルのほうが深いため、しょっちゅう関係の場を超えてしまった事態にぶちあたります。

しかし、そういうことも、経験の蓄積によってだんだんとわかってきます。つまり、カウンセラーのほうもクライエントによって鍛えられていくわけです。

初心者には初心者のすばらしい点があって、それは謙虚さがあるということです。自分の計らいが出てこないため、かえってうまくいくことが多いようです。

これが、少し経験を積んで上達してくると、妙な計らいが出てきて、それでよく失敗します。たとえば音楽家が、ちょっとうまくなったからといって、「よし、聴かしてやろう」などと考えたりすると、聴いているほうはいやになってくるのと同じです。