2014年7月3日木曜日

独立戦争期の政治の特徴

戦況が日本に不利となるなかで、民心の離反を防ぎ軍政への協力を確保する狙いから将来の独立が約束され、一九四五年三月に「独立準備調査会」が設置された。スカルノが建国五原則(パンチャシラ)を提示しだのは、調査会の会議の席上であり、現行の一九四五年憲法の草案もこの調査会での討議によってまとめられた。四五年八月一五日に日本が降伏すると、青年たちの激しい突き上げを受けてスカルノとパックは一七日に独立を宣言し、翌一八日には憲法を公布した。インドネシア共和国の誕生である。しかし、連合国とオランダはこれを承認せず、独立が国際的に認知されるまでの四年あまりの期間、独立戦争が戦われなければならなかった。

独立戦争期の政治の特徴と、これがその後のインドネシアの歩みに与えた影響としては、次の点を指摘しておきたい。戦前に禁止された共産党、国民党の復活も含め、イスラム系のマシュミ党、社会民牛王義の社会党(PSI)など多くの政党がこの時期に結成された。しかし、独立戦争さなかのことで選挙は実施されず、正常な議会政治は行われようがなかった。四五年憲法には内閣についての条項はなく(この点は日本の旧憲法に似ている)、行政府の長としての大統領に強い権限が与えられていた。

とはいえ、実際には独立戦争期にも首相に率いられる内閣が設置された。独立当初はスカルノ大統領自身が内閣首班を兼ねたが、四五年一一月からは社会党の指導者であったシャフリルが首相に就任した。以後、独立戦争が終結する四九年末までに、シャフリル、アミルーシャリフディン(社会党)、パック(副大統領兼任)、シャフルディンープラウィラヌガラ(フソユミ党)の四人が交互に内閣を組織した。この時期に内閣のリーダーシップをとったのは、主に社会党、次いでマシュミ党の指導者たちであった。

戦前の蘭印車または日本の義勇軍での車務経験片を中核に、人小多数のゲリラ集団を糾合して作られたインドネシア車は、同じ時期に共産党の指導ドで解放戦争を経験したベトナム人民軍とはまったく対照的に、政党や内閣の統制がほとんど利かない辻車過程をホんだ。独に吠を目指してのオランダとの外交交渉は、Lにシャフリルなど社会党系の指導行たちによって行われたが、軍はしばしばこれに反発しか。そのため、丈民政治家に不祐感をもち独自の政治的役割を求めるというインドネシア車の体符的傾向がこの時期に形成された。