2014年12月4日木曜日

経済的奇跡

東南アジア諸国の工業化が本格化したのは一九八〇年代に入ってからのことであった。この時期、第二次石油危機により彼らの主要輸出先であった先進国経済の全体が低迷し、一次産品市況の停滞と世界的高金利がこれに重なった。その帰結として東南アジア諸国は経常収支の大幅な赤字化、対外債務の累増、財政赤字の巨額化に見舞われた。輸入代替から輸出志向に転じる構造転換はまったなしの状況となった。そうして保護主義的諸政策を転換するための一連の規制緩和がこの時期に開始された。

東南アジア諸国は政府の経済介入を抑制し、民間企業の活力と市場メカニズムを発揚させることによって資源配分の非効率性向上を狙った。この政策転換には高い評価が与えられねばならない。政策転換の過程で日本とNIESの投資が集中するという幸運にも恵まれ、その工業化は本格化した。一九八〇年代後半期以来の円高ならびにNIES通貨高により、東南アジア諸国工業製品の相対競争力が強化された。のみならず、日本・NIES企業の対東南アジア諸国投資が集中的に発生した。東南アジア諸国の輸出はこれにより一挙に増加した。NIESにつづく東南アジアの経済的奇跡の到来である。

東南アジアの政治システムはしばしば「開発独裁」と呼ばれ、「権威主義開発体制」と称される。確かにそういっていいであろう。植民地独立闘争を勝利に導いた軍・政治エリートがその実績を背景に強力な指導力を発揮して有能な官僚テクノクラート集団を創成し、後者に経済建設のための権力と威信を集中してことにあたらせた。このテクノクラートの作成した開発計画に向けて、企業家、労働者、経済資源を動員していくという集権的な開発体制がNIESはもとより東南アジア諸国でもとられた。

東南アジア諸国の政策転換能力の高さはこのテクノクラートの能力の高さを反映する。開発政策における試行錯誤がテクノクラートに豊富な経験とノウハウを蓄積させ、彼らを鍛えてきたのである。本章に収められているのは、長らくその発展の可能性に懸念がもたれてきた東南アジア諸国がいかにして今日を築いたのか、その発展の態様ならびに発展をもたらした政策や体制、さらには国際環境などについての著作に関する私の評である。東南アジア諸国の政治、経済、社会の矛盾について論じている著作もあるが、それらも矛盾のゆえに東南アジア諸国が停滞しているといった主張ではなく、発展の結果とした新たに生まれた矛盾についてのものがほとんどである。

顧みてこのことは画期的である。序章でも指摘したようにアジア論といえばすなわち停滞論だというのがつい先だってまでのことだったからである。停滞論の代表作を記しておけば、「構造の緩やかな社会論」「ソフトステート論」(ミュルダール『アジアのドラマー諸国民の貧困の一研究』一九七四年、板垣興一監訳、東洋経済新報社)、「小型家産制国家論」(矢野暢「東南アジアを解く小型家産制国家の理論」『中央公論』一九七九年三月号)のごとくである。

時代はやはり大きく変わったのだといわねばならない。後れて発展への胎動をみせているインドに関する著作への評も本章で掲載した。東南アジアについて論じた私の著作としては『成長のアジア停滞のアジア』(一九八五年、東洋経済新報社)、『アジア経済の構図を読む』(一九九八年、日本放送出版協会)などを参照されればと思う。一九九七年七月以降の東南アジア通貨・金融危機については別に論じる。