2014年7月17日木曜日

BURの内容を見直す

一九九五年には冷戦後の世界における、米軍各部隊の役割を明確にする研究としてCORMが実施されたが、BUR(ボトムーアップーリビュー)作成から四年近くが経ち、その間に世界環境も変化し、一方では、米国防予算はBUR作成時よりもっと厳しい状況になってきたため、米議会は一九九七年度国防予算の支出権限法に付属する条件として、BURの内容を見直すことを米国防長官に義務づけた。その結果が一九九七年五月一五日に米国防戦略の「四年次見直し(QDR)」としてウィリアム・S・コーエン国防長官の名で議会に提出され、五月一九日に公表されている。

この報告書の内容が公表される前段階における予測の中には、BUR時に大きな可能性として予想された湾岸戦争規模の地域紛争は、その後発生せず、当面イラクに相当するような強大な軍事力を持って米国と敵対するような勢力ぱ見当たらないところから、BURよりもさらに大幅な米軍事力の削減が行われ、二つの大規模地域紛争に対応でき、勝利できる態勢を保持するという、いわゆる「ウィンーウィン(ヨミヨロ)」戦略が放棄されるのではないかというものもあったが、結局後述するように、この二つの大規模地域紛争対応能力の維持は妥当な戦略として残された。

ではどこがBURと異なるのかといえば、きわめて単純化して結論的に述べれば、BURの基本戦略は維持するものの、先端技術、特に情報関係の技術を駆使することにより、BURで定められた米軍戦力(兵員数や兵器、部隊の数)よりも少ない数で所要の任務が遂行できるとされ、あらだな削減によって生み出された経費を新型装備、兵器の開発、調達に振り向けるというものである。

ここでは、米国で一九九三年頃より盛んに言われるようになった「インフオメーションーウオーフェア」と、それを構成要素の一つとして、さらにセンサーや通信などの情報技術そのものと、精密誘導兵器やスタンドオフ型攻撃兵器などの新型兵器を組み合わせて実現されるはずの「軍事における革命(RMA)」における、米国技術と軍事力の優越性維持が強調されている。

2014年7月3日木曜日

独立戦争期の政治の特徴

戦況が日本に不利となるなかで、民心の離反を防ぎ軍政への協力を確保する狙いから将来の独立が約束され、一九四五年三月に「独立準備調査会」が設置された。スカルノが建国五原則(パンチャシラ)を提示しだのは、調査会の会議の席上であり、現行の一九四五年憲法の草案もこの調査会での討議によってまとめられた。四五年八月一五日に日本が降伏すると、青年たちの激しい突き上げを受けてスカルノとパックは一七日に独立を宣言し、翌一八日には憲法を公布した。インドネシア共和国の誕生である。しかし、連合国とオランダはこれを承認せず、独立が国際的に認知されるまでの四年あまりの期間、独立戦争が戦われなければならなかった。

独立戦争期の政治の特徴と、これがその後のインドネシアの歩みに与えた影響としては、次の点を指摘しておきたい。戦前に禁止された共産党、国民党の復活も含め、イスラム系のマシュミ党、社会民牛王義の社会党(PSI)など多くの政党がこの時期に結成された。しかし、独立戦争さなかのことで選挙は実施されず、正常な議会政治は行われようがなかった。四五年憲法には内閣についての条項はなく(この点は日本の旧憲法に似ている)、行政府の長としての大統領に強い権限が与えられていた。

とはいえ、実際には独立戦争期にも首相に率いられる内閣が設置された。独立当初はスカルノ大統領自身が内閣首班を兼ねたが、四五年一一月からは社会党の指導者であったシャフリルが首相に就任した。以後、独立戦争が終結する四九年末までに、シャフリル、アミルーシャリフディン(社会党)、パック(副大統領兼任)、シャフルディンープラウィラヌガラ(フソユミ党)の四人が交互に内閣を組織した。この時期に内閣のリーダーシップをとったのは、主に社会党、次いでマシュミ党の指導者たちであった。

戦前の蘭印車または日本の義勇軍での車務経験片を中核に、人小多数のゲリラ集団を糾合して作られたインドネシア車は、同じ時期に共産党の指導ドで解放戦争を経験したベトナム人民軍とはまったく対照的に、政党や内閣の統制がほとんど利かない辻車過程をホんだ。独に吠を目指してのオランダとの外交交渉は、Lにシャフリルなど社会党系の指導行たちによって行われたが、軍はしばしばこれに反発しか。そのため、丈民政治家に不祐感をもち独自の政治的役割を求めるというインドネシア車の体符的傾向がこの時期に形成された。