2013年3月30日土曜日

名刺を出せる服装

二〇〇〇年五月の超音速旅客機コンコルドの墜落事故では、左翼エンジン附近から火を噴きながら離陸するカラー写真が世界中に配信されましたが、これは日本人ビジネスマンがたまたま持っていたカメラで写したものです。この写真は全米報道写真家協会の「ピクチャー・オブーザーイヤー」の一枚に選ばれただけでなく、朝日新聞社の「二〇〇〇年読者の新聞写真」の年間賞も受賞しています。

もちろん、事故や事件ばかりがニュースではありません。身近に起きためずらしいこと、変わった風景もまたニュースです。そうしたニュースを一刻も早く伝えることを使命にしているのが新聞です。カメラというもう一つの目を持ってさえいれば、誰でもそれに参加するチャンスがあるのです。そう思ってカメラを持ち歩いていると、普段は興味も関心もなかったものにも注意が向いてきますよ。

子供の頃から写真に興味のあった筆者は、高校生のときには、将来はカメラマンになろうと決めていました。できることならライフ誌のアルフレッドーアイゼンスタットやデビッドーダグラスーダンカンのような写真家になりたい、と大きな夢を見ていました。アイゼンスタットはライフ誌創刊当時からのスタッフで、奇をてらわない、誰にでも分かる写真を撮っていました。とりわけ人物の特徴をよく捉えたスナップ写真は、まさに神業としか思えませんでした。ダンカンは、一九五〇年に勃発した朝鮮戦争を日本製レンズで取材し、その優秀性を世界に知らしめたカメラマンです。

当時、彼らのカメラマン姿はとても格好よく見えたものです。写真で見るアイゼンスタットはいつも背広姿、ダンカンは戦闘服に鉄兜、カメラを小脇に抱きかかえるように持っていました。『ちょっとピンぼけ』(文春文庫)の口絵写真で見たロバートーキャパも、背広にネクタイ姿でカメラに向かって微笑んでいます。右手で頭を支えているのは少し酔っていたからでしょうか。女優のイングリッドーバーグマンを夢中にさせたというのも無理はないと思うほどの男前です。

彼らに憧れて筆者もカメラマンになりたいと思ったのですが、一つだけ不満がありました。学生時代の終わり頃、ある新聞社の中にあった外国通信社でアルバイトをしていたのですが、そこで新聞カメラマンたちを見ているうちに、卒業したら彼らといっしょに仕事をしたいと思うようになりました。ところが、あることだけには、どうしてもなじめなかったのです。それは、彼らの服装でした。記者会見にも助手として何度もついて行きましたが、新聞もニュース映画や外国通信社も、当時の日本人カメラマンはいずれもジャンパー姿で、申し合わせたように色物のシャツを腕まくりしていました。 昭和三十年代の初め、「太陽の季節」が映画化され「週刊新潮」が創刊された頃です。きちんとしたスーツ姿で仕事をしているライフの写真家たちと、色物シャツの日本人カメラマンとでは、あまりに落差が大きすぎました。

結局、昭和三十三年に出版社のカメラマンに採用されたわけですが、初任給の一万二千円から四畳半のアパート代四千五百円を引くと、一日あたり二百五十円しか残りません。写真部長はいつもネクタイに背広、ピシツと折り目のついたズボンの下にはピカピカの黒い短靴。「出版社のカメラマンたるもの、常にスーツを着て仕事すべし」というのが部長の厳命です。田舎の兄に泣きついたら、わざわざグレーの背広上下を持って上京してくれました。替えズボンだけはなんとか自分で買って、取っかえ引っかえはいて初ボーナスまでつなげたものです。