2015年8月5日水曜日

『国富論』は階級闘争の書

初期の資本家は、基本的に自己資本かパートナーシップという無限責任でやっている。だから株式会社(有限責任)ではないのです。いわゆる産業革命が起こったころの綿工業というのは、株式会社は一つもないそうです。スミスの本を読んでも、問題は圧倒的に地主と資本家の対立です。スミスも、地主と資本家のどちらが正しいかという話をして「資本家が利益を得られる国のほうが、地主がのさばっている国よりも豊かになる」と力説しています。イギリスの保守党も、基本的にジェントルマンの党です。日本では地主というのは戦争で消滅しましたから、こういう話はよくわからない。

イギリスは、いまだにそうなのです。イギリスでは、製造業はあまり尊敬されなくて、資産運用が立派な仕事だとされています。八〇年代にサッチャー政権でイギリス経済は復活したといわれていますが、製造業はまったくだめです。金融がGDPの一三%ぐらいを占めている。金融だけでいうと、ロンドン証券取引所のほうが、ニューヨークより活発でハイテク化していますね。それはなぜかというと、昔から金も時間も余っている地主がいっぱいいるからです。彼らはすごい資産があるのですが、工場にはあまり投資しない。基本的には海外の植民地に投資した。

だから株式会社は、海外投資のリスクを避けるためにできたのです。目の前の工場に投資するなら大した金はいらないのですが、インドとか遠くの国に大金を投資するときは、リターンも大きいがリスクも大きい。そういうものはしっかりしたリスク管理できる仕組みがないとお金を出さないということで、株式会社が出てきた。実は産業革命と株式会社っていうのは別々にできて、あとから一緒になったものらしいのです。この地主と資本家の対立には現代的な意味もあって、第四講で紹介するケインズの『一般理論』もこれがテーマです。保守的な地主が、景気が悪くなると投資しないで現金を持つからイギリス経済がだめになるという話です。不労所得を得ている階級がイギリス経済をだめにしているというのは、スミス以来のイギリスの経済学者のテーマです。

したがって『国富論』は階級闘争の本ですが、これは地主と資本家の階級闘争で、労働者は出てこない。それはなぜかというと、スミスが生きていた一八世紀の後半というのは、まだまだ資本主義が立ち上がったばかりで、労働者なんていくらでも農村から集まってくるので、まだ資本家と闘う力はなかったのです。マルクスが描いた一九世紀後半の資本主義のイメージが、皆さんの頭に強烈に焼き付いているものだから、資本主義は最初から資本家と労働者が階級闘争をやっていたように思われているかもしれませんが、むしろ当時の農村で食い詰めた人が都市に流入してきたわけです。流入してくるということは、当然こちらのほうが所得が高いわけです。

だからマルクスの話は、根本的におかしいところがある。労働者があんなに悲惨だったら農村に帰ればいいのに、なぜ帰らないのか。それは労働者のほうが儲かるからです。経済史家のグレゴリー・クラークも、賃金労働者は農民の倍ぐらい稼いでいて、資本家より効率がよかったといっています。では『国富論』は何を攻撃しているかというと、大地主や大商人が行政と結びついて談合しているのを批判しているのです。スミスというと自由放任でみんな勝手にやればいいといっている、そう思っている人がいますが、むしろ市場を悪用して特権を守る連中を批判している。