2015年12月4日金曜日

アメリカにおける生産管理の基本とは

日本経済が原油価額の高騰を吸収できたもう一つの、さらに重要な原因がある。それは日本の生産管理がアメリカ型から日本型に変わってきたことである。一九五〇年代の末には、日本の企業の大部分はアメリカ風の生産管理の手法を消化したが、どうしても、それになじめない部分があった。技術的な面に限って言えば、作業標準やメインテナンスの基本的な大切さは、アメリカでも日本でも中国でも変わりはない。問題は、その作業標準やメイシテナンスを、全ての作業者にしっかりと守ってもらうには、どのようにすれば良いかということである。それは、それぞれの国の日常習慣や文化や歴史によって、さまざまである。
 
アメリカの企業組織では、日本で言えば職長や班長に当たる監督者が、自己の責任と権限において、職場の作業員に正しい作業のやりかたを教え、監督し、まちかっていれば正すことで、職場の全員が作業標準を守ることを期待した。フォアマンが生産管理のかなめである。一九五〇年代の日本でも、その監督者に対する訓練方式が導入された。当時の日本の労働省職業安定局が編集した「TWI実務必携」(一九五四年)を開いてみると、作業の教え方や人の扱い方について、アメリカ風に微に入り細をうがって書いてある。

作業の教え方では、「簡単な短時間でできる仕事であったら、数分おきに来てみる必要がある」、「もし間違っていたら、当然それを直さなければならない。この場合にも、その間違った点だけを根気よく直すことが必要」とある。当たり前のことではあるが、アメリカの場合、教えるにせよ直すにせよ、それは企業との契約にもとづいての、フォアマンの責任と権限によることである。だから、職場の作業員同士で、教え合ったり直し合ったりすると、それはフォアマンの権限をおかすことになる。

そのうえ、アメリカの労働者は一人一人プロとしての職能意識が強いから、となりの労働者から「それは間違っているよ」などと言われると、プライドを害してしまう。人に教えるという義務も、企業との契約条項にはないから、教える方もおかしいのである。つまりアメリカでは、フォアマンも作業者も、それぞれ仕事の責任範囲が明確に決まっていて、その責任を各自が確実にはたすことが、生産管理の基本である。

2015年11月5日木曜日

アンクル・サムの円建て国債

エネルギー・防衛・資源の三点から常時弱点を抱えているのは日本であり、それはまた天下周知の事実でもあるので、せいぜい国際通貨として利用されるのは現在の四~六パーセント程度からせいぜい一割限度と思われる。とすれば抜本的な解決策にはとうていならない。では、日本人がドル建てで米国債を東京やニューヨークで買うようなことにしないで、米国自体が日本で円建て債を大量に発行してはどうか。一回で巨額の発行は市場に悪影響があるから小出しにしたって、アンクル・サムの円建て国債ならNTT株式以上に日本人の人気は集まるのではないか。

手取り円貨をドルに換えるために円売りドル買いが起き、ドル高になっても一八〇円ほどまでなら日本企業も米国企業も傷つかないのではないか。東芝カセットを下院前庭で叩き壊すのよりは、また次々と一五〇円から一四〇円、一三〇円、二一〇円と無限に円高にして日本企業の海外流出と日本人の怨みを買うよりは、はるかに妥当な施策ではないか。しかし、米国国内事情から、円建て米国債の日本での発行は困難視されているし、これは決定的に米国が日本に頭を下げることになり無理でもあり、米国人は為替差損益が理解困難である。

無限に日本人が米国債や株式を買い、円建て貸付けを米国企業にしてゆくか、米企業が日本国内でサムライ債発行を続けてゆくか、またはユーロ円の起債をしてゆくことになるのか。しかし、いつかは必ず、どんな方式をとったところで、いずれは限界点に達するであろう。日本投資家がもうドル建て証券は買わぬといえば、現在の均衡はたちどころに崩壊し、米国金利は上昇し、ドルの暴落も起こりうるし、インフレは再燃する。しかし、米国自体も無限に債務を増加してゆくわけにはいかない。

2015年10月5日月曜日

強制加入者

改正前の日本の年金制度は各制度が独立し、相互の関連がなかったが、基礎年金は各制度に共通する部分として設けられた。国民が受ける年金のうち、基礎的な部分を、基礎年金によって統一したものである。基礎年金には、老齢基礎年金、障害基礎年金、遺族基礎年金の三種類があり、それぞれの状況に応じて支給される。障害基礎年金と老齢基礎年金というように二つの年金の受給権ができたときは、本人の選択によりその一つが支給される。

基礎年金ときくと、まったく新しい制度と思うかもしれないが、その仕組みなどは従来の国民年金をひきつぐので、単純にいえば国民年金イコール基礎年金と考えて差支えない。原則として二〇歳から五九歳までの国民がすべて強制加入―つまり、加入しなければならないが、保険料の納め方等によって、加入者は第1号、第2号、第3号にわけられる。第2号から説明すると、これは厚生年金、共済年金などの被用者年金の加入者である。第3号は第2号、つまり被用者年金加入者に扶養されている配偶者、言いかえればサラリーマンの妻である。籍を同じくしていない、つまり事実婚の配偶者でも、生計をともにし、扶養されていれば第3号と認められる。

第1号は右の第2号、第3号以外の人々である。日本国内に住む自営業者、厚生年金が適用されていない事業所に働く人、二〇歳以上の学生などである。ただし従業員が五人未満で法人化されていない事業所には、厚生年金が適用されていない。第3号のサラリーマンの妻は年収一一〇万円未満なら保険料を納める必要はないが、これ以上の所得があると第1号となり、保険料を負担する。勤めに出て厚生年金加入者となると、第2号にかわる。

国民年金の加入は五九歳までであるが、希望すれば六〇歳以後六四歳まで加入できる。国民年金の加入期間が足りない人や、年金をより多く受けたい人は、この制度を利用できる。自営業者(第1号)、サラリーマンの妻(第3号)は、ともに六四歳まで任意加入できるが、この場合サラリーマンの妻は六〇歳からは第1号となり、保険料を払わなければならない。厚生年金、共済年金の老齢年金を受けている人も、六四歳まで任意加入できる。海外に住む日本国籍をもつ人は、二〇~六四歳まで任意加入できる。

厚生年金には、現役のサラリーマンは六四歳まで加入できるが、以後は加入できない。国民年金もこれにあわせて、六四歳まで任意加入できる制度とした。〔サラリーマンの妻の届出〕半年前に結婚し、夫はサラリーマンで厚生年金に加入しています。年金に関し、妻は市役所に届出をしなければいけないとききましたが、どのようにするのですか。夫が厚生年金(共済年金)の加入者で、その扶養をうけている妻、つまり専業主婦は、国民年金の強制加入者となります。そこで、夫が厚生年金等の加入者であり、その扶養をうけていることを、市区役所町村役場の国民年金係に届け出る必要があり、これが国民年金加入の手続きともなります。

2015年9月4日金曜日

森林資源が適切に管理

六月二一日、世界遺産誓願参拝のイベントが実施された。佐藤さんの心配をよそに六〇〇名が集まり、全員笑顔の集合写真がユネスコの審査委員に届けられることになったのである。七月二日、カナダのケベック市で、世界遺産登録の審議が始まった。今回は例年になく厳しい結果だ。各国から申請された四七件のうち、合格したのは二七件だけ。平泉の審議も長引いた。高橋一男町長のもとに知らせが入ったのは、七日の朝だった。「もしもし、記載延期ですね」と電話で確認した後、町長はしばらく何も言えない。記載延期つまり落選である。日本が推薦して拒絶された初めてのケースとなった。千葉さんも言葉が出ない。

その後、防災無線で町中に、世界遺産登録が見送られたことが伝えられた。佐藤さんも「世界遺産て、何なんだろう」と失望を隠せない様子だ。町全体が重苦しい空気に包まれているようだった。あれから三週間、七月末になって、平泉を訪れてみると、役場の入り口には「夢」という巨大な文字が掲げられていた。千葉さんは「夢を持って、三年後の登録に向かって、突き進んでいきます」と力強く話した。三年はかかると言われる再チャレンジに向けて、町民たちの気持ちも変わり始めたようだ。「おもてなしシール」も、あちこちに増えている。熱血漢、佐藤さんも、こう語ってくれた。

「平泉うんぬんよりも、地域を勉強する機会を与えられたとプラスに考えています。あっと言う間の三年になるでしょう。何をしたらいいのか、まだわからないけど一何かはしていきたい」平泉は、世界遺産登録に向けて動き出していた。世界遺産登録で人口四〇〇人の町は大混乱。島根県のほぼ中央にある大田市、その山間にある大森町に、二〇〇七年に日本で一四番目の世界遺産に選ばれた石見銀山がある。石見銀山からは、戦国時代後半から江戸時代前半にかけて、大量の銀が採掘され、日本の銀のほとんどを占めていた。当時、この鉱山で掘られた銀は、世界の三分の一の量に達し、中国はもとより遥かポルトガルやオランダとの貿易を支えていた。

石見銀山は、森林資源が適切に管理されていたため、今も豊かな自然が残されている。銀を運んだ街道、銀を積み出した港、そして採掘時に中心となった大森町の町並み。そのいずれにも鉱山と自然と人々の暮らしが見事に共生していた跡が、現在でも残されている。その様子が、世界でも希有な場所として評価されたのだ。石見銀山は、世界遺産に選ばれたことで、突然観光地としても脚光を浴びることとなった。登録一年で、年間の観光客数は以前の四〇万人から、約一・八倍の七一万三〇〇〇人に増えている。この一年、町はかつてない賑わいを見せていた。

しかし、急激な変化に、さまざまな軋みも表れるようになった。昔からあるお菓子屋さんに置かれている商品は二つだけだ。お店の主人は「手作業なので大量生産できない。間に合わないんです」と苦笑していた。もっと深刻なのは、移動手段だ。大森町人口から坑道入口の最寄りのバス停までの約二・五キロを、観光客は路線バスに乗るしかない。大森町ではマイカーの乗り入れを規制して駐車場から先は路線バスに乗り換えてもらう「パークアンドライド」方式を採用しているからだ。

2015年8月5日水曜日

『国富論』は階級闘争の書

初期の資本家は、基本的に自己資本かパートナーシップという無限責任でやっている。だから株式会社(有限責任)ではないのです。いわゆる産業革命が起こったころの綿工業というのは、株式会社は一つもないそうです。スミスの本を読んでも、問題は圧倒的に地主と資本家の対立です。スミスも、地主と資本家のどちらが正しいかという話をして「資本家が利益を得られる国のほうが、地主がのさばっている国よりも豊かになる」と力説しています。イギリスの保守党も、基本的にジェントルマンの党です。日本では地主というのは戦争で消滅しましたから、こういう話はよくわからない。

イギリスは、いまだにそうなのです。イギリスでは、製造業はあまり尊敬されなくて、資産運用が立派な仕事だとされています。八〇年代にサッチャー政権でイギリス経済は復活したといわれていますが、製造業はまったくだめです。金融がGDPの一三%ぐらいを占めている。金融だけでいうと、ロンドン証券取引所のほうが、ニューヨークより活発でハイテク化していますね。それはなぜかというと、昔から金も時間も余っている地主がいっぱいいるからです。彼らはすごい資産があるのですが、工場にはあまり投資しない。基本的には海外の植民地に投資した。

だから株式会社は、海外投資のリスクを避けるためにできたのです。目の前の工場に投資するなら大した金はいらないのですが、インドとか遠くの国に大金を投資するときは、リターンも大きいがリスクも大きい。そういうものはしっかりしたリスク管理できる仕組みがないとお金を出さないということで、株式会社が出てきた。実は産業革命と株式会社っていうのは別々にできて、あとから一緒になったものらしいのです。この地主と資本家の対立には現代的な意味もあって、第四講で紹介するケインズの『一般理論』もこれがテーマです。保守的な地主が、景気が悪くなると投資しないで現金を持つからイギリス経済がだめになるという話です。不労所得を得ている階級がイギリス経済をだめにしているというのは、スミス以来のイギリスの経済学者のテーマです。

したがって『国富論』は階級闘争の本ですが、これは地主と資本家の階級闘争で、労働者は出てこない。それはなぜかというと、スミスが生きていた一八世紀の後半というのは、まだまだ資本主義が立ち上がったばかりで、労働者なんていくらでも農村から集まってくるので、まだ資本家と闘う力はなかったのです。マルクスが描いた一九世紀後半の資本主義のイメージが、皆さんの頭に強烈に焼き付いているものだから、資本主義は最初から資本家と労働者が階級闘争をやっていたように思われているかもしれませんが、むしろ当時の農村で食い詰めた人が都市に流入してきたわけです。流入してくるということは、当然こちらのほうが所得が高いわけです。

だからマルクスの話は、根本的におかしいところがある。労働者があんなに悲惨だったら農村に帰ればいいのに、なぜ帰らないのか。それは労働者のほうが儲かるからです。経済史家のグレゴリー・クラークも、賃金労働者は農民の倍ぐらい稼いでいて、資本家より効率がよかったといっています。では『国富論』は何を攻撃しているかというと、大地主や大商人が行政と結びついて談合しているのを批判しているのです。スミスというと自由放任でみんな勝手にやればいいといっている、そう思っている人がいますが、むしろ市場を悪用して特権を守る連中を批判している。

2015年7月4日土曜日

世界に通用する製品

旧ソ連が抱える政治・社会問題は、きわめて深刻だ。連邦崩壊以前にすでにGNPが減少しはじめたのは、リトアニア、アルメニア、アゼルバイジャン、タジクなどの共和国で民族対立や国境紛争が起きて、共和国間の物資の流通がうまくいかなくなったのが最大の原因だ。対立するグループ同士が交流を拒否したために、国内市場が事実上機能を停止したのだ。連邦が崩壊し各共和国が独立して、事態はますます悪い方向へ動いている。独立した共和国のうち、少なくともロシア、ウクライナ、カザフは一夜にして核保有国になった。

連邦経済の崩壊は社会的・軍事的崩壊にくらべれば危険性は小さいかもしれないが、問題の複雑さは変わらない。完全に自給自足の可能な地域などはありえないにしても、旧ソ連邦を構成していた各共和国は、アメリカの五〇州をバラバラにして独立させた場合よりもずっと自給能力が低い。スターリンは大量生産こそ経済的飛躍への道だとして市場経済の社会ではありえないような巨大な工場を建設した。

ある調査によれば、ソ連国内で生産される六〇〇〇種近い商品のうち七七パーセントが一品種一工場の方式で集中的に生産されていたという。生産施設は、限られた地域に極端に偏っている。旧ソ連邦から独立しても、各共和国には「経済」と呼ぶべきシステムがない。ロシア共和国とトルクメン共和国はエネルギー資源を握っているので発言力が強くなるだろう。

各共和国としては独立後もこれまでと同じようにお互いに交易を続けるのが理にかなっているのだが、現実には難しいだろう。たとえば油田を持つ共和国は、粗悪な商品と引きかえに他の共和国に原油を売るよりも、国際市場で売って米ドルを入手したほうがいいと考えるにちがいない。しかし大多数の共和国は、世界市場ではとても売り物にならない粗悪な製品を大量に背負い込むことになるだろう。世界に通用する製品を生産できるようになるまでには、まだまだ何年もかかる。

共和国間の商品流通がうまくいかないのに加えて、個人レベルでも物資の交流が滞るようになるだろう。すでに農民は、収穫した農産物をためこみ始めている。秋になっても穀物を売らずに貯蔵しておけば、食糧が不足する冬になって高値で売れるからだ。一九九一年秋、政府の穀物倉庫には通常の三分の一しか食糧がなかった。政府はトンあたり三〇〇ルーブルで穀物を買い上げる交渉をしているか、農民はこ一〇〇ルーブルを要求して譲らない。作柄か悪いわけではないのに農民か食糧の出し惜しみをしたために飢饉か起きた例は、歴史にも珍しくない。

2015年6月4日木曜日

非正社員を雇わない大企業が続出

2ちやんねるなどのネット上の掲示板を見ても、ライブドアでの投票と同様、「派遣労働者以外が『派遣村』に流人しているのではないか」「本当に生活できないのか」といった指摘が目立つという。こんな情勢から労働者派遣法の規制が強化されれば、どういう事態が発生するのだろうか。マスコミは社会正義が貫かれたと喜ぶかもしれないが、そんな態度は、あまりにも自分達の給料が高すぎて、庶民の感情を理解していない証拠にすぎない。当たり前の結論だが、派遣労働者を雇うコストが高くなったり、「派遣切り」などで法令遵守を強く意識する大企業は、派遣労働者を雇わなくなる。派遣労働者だけではない。工場で働く期間工などの直接雇用の非正社員や、サービス業で働く契約社員やパート、アルバイトなどの非正社員まで雇わない可能性もある。

労働者派遣法を改正して派遣労働者を保護するのであれば、その他の非正社員の待遇も改善せざるを得ないし、非正社員全体に対する企業の雇用責任も強化せざるを得なくなる。派遣労働者だけを過剰に保護することはバランスを欠くからだ。それだけではない。今後5年間程度は、厚生労働省による事業所や企業に対する取り締まりも強化されると予想される。具体的には、各地の労働基準監督署が「不正なサービス残業をさせていないか」「非正社員という理由で不当に解雇していないか」などを厳密に監督するようになるのだ。労働基準監督署で働く監督官は司法権限を持っており、法律違反に対して検察庁へ送致できる。そのため、本格的な監督を行えば困る企業も多数出てくるだろう。

厳密な証拠があるわけではないが、厚労省も政府の一員である以上、これまでも景気情勢や企業体力に合わせて、企業の労働法違反を取り締まってきた観がある。バブル経済崩壊後の長期不況期に「積もりに積もったサービス残業」を取り締まりだしたのも、景気や企業体力が回復した後である。違法な派遣に対する取り締まりの強化も景気回復後のことである。しかし、今後5年間程度は、金融危機で企業が不安定だという理由だけで、労働法違反に対する取り締まりが弱くなるとは考えにくい。もし労働基準監督署の指導が弱くなれば、企業にばかり配慮しているという世論が強くなり、政府が批判の矢面に立たされるからだ。

そのような状況を考えると、企業はますます非正社員の採用を手控える可能性が高くなると考えられる。企業が非正社員を抱えるリスクが高くなるからである。その結果、失業率が高止まる可能性が高い。バブル経済崩壊後に失業率が改善した大きな要因の一つは非正社員制度にある。非正社員として雇われる人が増えた結果、失業率が改善されてきたにすぎないのだ。非正社員が雇いにくくなれば、企業は雇用を控えるという選択をするのは明らかだ。

その一方で、派遣労働者などの非正社員が生活保護に安易に依存しようとすると、世間はものすごいバッシングを浴びせる可能性がある。人口減少・高失業率社会では、雇用のミスマッチが生じているだけで、働く場所はいくらでもある。大企業の派遣切りで職を失ったのであれば、農業でも介護でもタクシーの運転手でもやればいいという意見は必ず出てくる。確かに、金融危機直後の現時点のように、日本全体が世界同時不況の中で一種の興奮状態にある時には、非正社員の雇用保険や職業訓練などに積極的賛成を示すのかもしれないが、少し時間が経過すると、異なった対応を示すようになるだろう。また、増税を伴うような措置などにまで踏み込んだセーフティーネット構築にまで至ると、ものすごい反発が生じると予測される。

2015年5月9日土曜日

保険税や給付内容の問題点

国保の加入者(被保険者)と組合健保や政管健保の被保険者をくらべると掛げ金(保険税)もちがえば給付内容もちがうという矛盾がある。保険税は政管健保が標準報酬月額の1000分の八二、組合健保は同八二・五ぐらいである。これにたいして国保は、算定基礎がちがうことと、市町村ごとに率がちがうので一概には比較できないが、同一収入額で比較すると、国保のほうが約二倍になっている。

給付内容の差はもっと大きい。組合や政管健保は、外来診察時には一割の自己負担だが、国保は三割も自己負担がある。国保加入者は明らかに不利である。また、国保は傷病手当金も出産手当金も出していない。組合健保の傷病手当金は月額の一〇分の六、一年半まで給付。出産手当金は日額の一〇分の六を産前四一一日間、産後五六日間支給している。

傷病手当金や出産手当金はともかく、保険税や給付内容の問題点を解決するためには、各種の保険を一元化して給付と負担の公平化が図られなければならない。一九八四年の健保法改正のさい、衆議院で付則として保険の一元化に向けて必要な措置を取るよう可決されている。

この方向は正しいし、早急に実現しなければならない。しかし、それをするためには、国保の財政基盤を強固にする必要がある。国保は三八三〇万人が加入している(国民全体の三〇・八パーセント)。その保険者は三二五四の市町村で、市町村間には当然のことながら財政力に格差がある。加入者の平均年齢は四六・三歳(組合健保は三一・六歳)で老人加入割合はニハ・九パーセント(組合健保は二・九パーセント)にも達している。

国保加入者の収入も少ない。無職の世帯が三五・四パーセントもあり、平均所得は年間二八九万四〇〇〇円(うち無職者一五六万九〇〇〇円である)。保険というのは、もともと社会連帯責任のうえに成立するものだが、国保の場合、保険料を払う水準に達していない人が加入者の四分の一ぐらいいる(年収約ニハ○万円以下の世帯)。国は国保にたいして医療費の二分の一、保険税軽減分の二分の一を負担し、さらに市町村の一般会計から四千数百億円が補填されているが、それでも、なお三百数十市町村の国保会計は赤字である。

2015年4月4日土曜日

顧客と知人を増やす

こうしたちょっとした差が生み出す大きな格差と、全てにおいて要求されるスピードが苦手な人は、そもそも外資系を目指さないほうがよいだろう。但しこの不条理と速度感は、停滞する日本企業が外資系から積極的に学ぶべきことでもあると私は考えている。外資系で実績を増やす有力な方法の一つは、「顧客を沢山抱え、頼りになる知人を持つこと」だ。あえて「友人」とは言わない。学生時代や日系企業で働いている時からの友人ならばそう呼ぶべきだが、一般的に「外資系の社会では友人はできない」と思ったほうがよいので、ここでは知人という言葉を使うことにする。

知人は社内、社外、両方で作ることが可能だ。社内であれば、同僚、斜めの位置にある上司(同僚の上司という意味)や部下が対象となる。これは何度も書いていることだが、外資系では直属の上司、部下の関係が全てであるから、知人の候補から上司と部下は排除される。上司の上司、部下の部下も同様の理由で知人の対象にならない。余談だが、上司の上司について述べる。日系企業と違って外資系では、上司の上司を自分の保身のために使おうとすると、大火傷することがあるので要注意だ。その理由は、上司の上司の目から見れば、あなたの上司は彼(彼女)の直属の部下であり、部下の忠誠心をつなぎとめておくためには、それ以外の要素は全て不要、有害であるからだ。

仮にあなたが直属の上司と仕事上で対立して、上司の上司に直訴したと考えてみよう。あなたの言い分かもし正しいとしても、それがよほど重要なことでない限り、上司の上司はあなたの上司の肩を持つ。たとえそのためにあなたが離職したとしても、彼にしてみればあなたの上司が辞めるよりもダメージは圧倒的に少ない。日本企業でよくある上司を飛び越えての直訴は、あなたが会社を辞めてでも意見を通したい場合でない限り、外資系ではすべきではない。このことを勘違いする人は案外少なくない。

上司にとって自分を頭越しにする部下の直訴は反乱と同じである。反乱分子は取り除くしかない。直訴はあなたとあなたの上司の関係を決定的に悪くする。上司の上司は必ずあなたの上司に直訴のことを告げ、そして上司の言い分を尊重するだろう。つまりあなたにとって得なことは一つもない。外資では「損得」が全ての価値基準であり、「正邪」は不要かつ有害な判断基準である。たとえそうであっても「上司の仕事が見苦しい、正しくない」と言い張るメリットはゼロであり、デメリットは数限りなくあるということである。だから外資系で上司に従いたくないと思った時には離職するか、一か八かで反乱する(つまり直訴する)しかない。しかし、後者の成功率が限りなくゼロに近いのは前述の通りである。

話を戻すと、顧客の力と社内外の知人の力は、最終的には上司一人の力に及ばない。上司と対立した場合、お客さんも社内外のサポーターも最後には助けてくれない。しかし、上司や部下との人間関係が良好な時は、こうした人々の存在が安全弁となる。顧客に自分のことを褒めさせる、社内の斜め関係の上司に社内ミーティングで自分の意見を支持してもらう、といったやり方であなたの地位は少し安定する。何かのきっかけで離職することになったとしても、彼らはあなたにとってありかたいレファレンス(照会先)となる。顧客や社外の知人によるあなたを推奨する言葉は、社内の知人のそれよりも格段に強いが、多くのヘッドハンターはこのことに気づかない。

2015年3月5日木曜日

東西のホームの料金システムの違い

老人ホームといえば、もう一つ驚いたことがある。上の妹が大阪の自宅に近いホームのパンフレットを送りっけてきたとき、中身をみたら、毎月の経費は、たまに親たちをショートーステイさせる東京のホームにくらべるとやや安いが、そのかわり洗濯代はパンツー枚いくら、シャツ一枚いくらと、出した数に応じて別途請求する仕組みである。テレビは一〇〇円玉を入れれば何分間見られる、部屋の掃除代はいくら、トイレの掃除は別料金、とやたら細かい。逆に食費は、前日までに断ればその分だけ差し引く。

銀座の協会事務所でもらってきた関東一円のホームのパンフレットでは、例外なく、細々したものがすべて込みで、月極めいくらになっている。標準的な生活を想定して試算してみると、東京のほうが若干安くつく。なぜこんなにシステムが違うのか、親たちが利用するホームの事務長に電話して聞いたら、関西はこれがふつうなんです、という。

食わなかったのに食費をとるとは何事だ、と必ずクレームがつく。洗濯代を込みにしておくと、どうせタダならやってもらおうやないか、と見舞いついでに家から汚れ物をごっそり持ってくるのが現れる。

東京ではあまり細かいことをいうと嫌われる傾向があるが、関西、とりわけ大阪では、単価をつけていちいち積算しないと通用しないそうだ。同じ日本の中でこれだけ対照的なのは、ええカッコしいの東と、カネにシビアな西とて、いわば人生のレールの幅が違うからだろう。

だれが入居一時金を出すかによってホームに入る老人の尻の落ち着き方がまるで違う、という話は、自分で終の栖を設定することができる人生を送ってきた人間、自分の責任で自分の生涯の幕を引くことができる生き方をしてきた人間と、そういうふうには生きてこなかった人間との、対比の問題である。しっかりした責任感のもとでレールを走ってきたかどうか、という違いである。

超高級有名ホームでの入居者間の微妙なサヤ当ての話は、基本的に自己責任原理に立って生きてきた人たちの間でも、それまでの生活環境や生活感覚が、似通っていれば似通っているなりに、ズレていればズレているなりに、一つの終着駅に合流して暮らすのは容易でない、ということを物語っている。生活感覚とは人生の乗り心地のようなもので、少しでも感じが変わると、老人になればなるほど快適感が失われ不快感が募るのだろう。

東西のホームの料金システムの違いは、介護サービスにも風土性が色濃く反映する、という事実を示している。駅のホームで、東京にくると大阪人も列に並ぶが、大阪にいくと東京人も列をつくらず先を争って乗る。これは善悪以前の、上地の気風がにじむ流儀のようなものだが、老人になると身に染みついた流儀を変えにくい。行政にありかちな一律のサービス姿勢では、各地で摩擦が多発しかねまい。

2015年2月5日木曜日

政党助成金は企業・団体献金の廃止・縮小とワンセットのはずだった

本来、政党助成金は企業・団体献金の廃止・縮小とワンセットになっていたはずだった。しかし自民党が過去五年間にやったことは、企業・団体献金収入を大幅に増やす、まったく逆の動きであった。

それどころか、同党政治改革本部は九九年十月二十五日の総会で、政党助成金を減額する代わりに、九五年一月施行の改正政治資金規正法に明記された政治家個人への企業・団体献金について、「施行五年後にこれを禁止する措置を講じる」とした付則九条を削除する方針を決めた。

法律の規定を反故にするこの決定に世論や野党は一斉に反発、あわてた自民党執行部は、政治資金規正法の規定に沿って二〇〇〇年一月から政治家個人への企業・団体献金禁止の方針を決めた。まことにお粗末としか言いようのない経過であった。

結局、政党への企業・団体献金はどうなるのか? 改正政治資金規正法は付則十条で、法施行後五年で個人献金の伸び具合や政党財政の状況をみて、企業・団体献金を見直すとうたっている。

だが、小渕首相は国会答弁で、「見直して削除もありうる」と、付則十条を削除して、企業・団体献金の永続化を図る方向を示唆した。さらに問題なのは、政党助成金総額を五年後に「見直す」とした政党助成金法付則六条についても、自民党が削除を画策していることだ。

もともと政党助成金は、政党の支持、不支持にかかわらず、政党への寄付を国民一人ひとりに強制する、憲法違反の国庫からの支払い行為である。

個人献金を増やす努力を怠り、政党への企業・団体献金を存続させ、政党助成金とともに懐に入れる「二重取り」は、それ自体が大きな問題をはらんでいる。

政党向け企業・団体献金と政党助成金はこの際きっぱりと廃止して、政治資金は個人献金一本に絞るべきだ。それが政治を浄化する最短の道である。

2015年1月8日木曜日

冷戦後の自衛隊の変容

「協力の内容によっては、これを公表することにより、例えば米軍のオペレーションが対外的に明らかになってしまうといったことも考え得る。このような場合については、必要な期間、公開を差し控えていただくよう、協力要請の段階で、併せて依頼を行うことを考えている」と情報統制も示唆していた。第九条の規定は全国の地方自治体に不安と動揺を与え、二〇〇以上の県・市町村が反対や慎重審議決議を採択した。しかし国側は、国会審議で地方自治の尊重を強調しながらも、自治体や企業に、政府の「協力要請」や「依頼」への拒否権があるとは認めようとしなかった。この論点は、その後提案される「有事法制」、とりわけ「国民保護法」において、よりぬきさしならない国権対地方自治のかたちで議論の焦点となるものである。

以上みてきた冷戦後における日米安保協力、その下での自衛隊の変容は、それ以前の防衛論議を規定してきた憲法原則および政府解釈に大きな転換をもたらした。すなわち、自衛隊の任務は国土防衛に徹するものであって、個別的自衛権の範囲内で専守防衛を本旨とする受動的な防衛戦略に限定され、海外派兵は行ないえない。安保条約にもとづく日米軍事協力は、条約区域である「日本の施政の下にある領域」にかぎられるものであって、なんら領域外における義務を負うものではない。

自衛隊は自衛のための実力であって、必要最小限度の実力にとどめられ、国際法上の交戦権は行使できない。集団的自衛権の行使(他国の戦争への参加)は、憲法上許されない。一九九〇年代の自衛隊のあり方とは、これらの枠組みが崩れ、地域的に、また任務においてあいまい化し、アメリカの世界戦略変更にしたがって、自衛隊が、ふつうの軍隊に変化していく過渡期であった。そのうえを、二〇〇二年にはじまる小泉劇場の五年半が突っぱしり、さらには安倍首相の「戦後レジームからの脱却」へと、憲法破壊をより高次のものに押しならしていくのである。「一九九〇年代における日米安保協力の新たな枠組み」を年表化した。

「夫インド洋、妻はチモール」。こんな見出しの記事が自衛隊の準機関紙『朝雲』に載った。二〇〇二年九月のことだ。米軍のアフガニスタン攻撃を支援する「テロ特措法」制定、そしてインド洋への補給艦、護衛艦の出動。それによって海上自衛官の夫は対米支援任務に派遣される。一方、女性自衛官の妻は、おなじ時期を束チモールPKO部隊の一員として、やはり海外ですごす……。記事は、美談仕立ての夫婦共働き自衛官の別居生活を通じ、新世紀初頭における自衛隊活動の広がりを伝えていた。

この年、すなわち二〇〇二年、海外で新年を迎えた陸・海・空自衛隊員は二〇〇〇人以上にのぼった。クウェート、インド洋、ゴラン高原、東チモールなどだ。その後「インド洋津波支援」に派遣された部隊を加えると、自衛官約三〇〇〇人が、この年に国外に出たことになる。「海外派遣」は、もはや日常的な光景になった。とりわけ「イラク戦争」を境として、自衛隊の姿勢は、いちだんと高ぶり戦闘色をつよめた。そのしるしを、いくつかの事例でみておこう。二〇〇四年六月開かれた陸上自衛隊研究本部の「第三回研究本部セミナー」で、報告者の一人は、イラク派遣任務から今後学ぶべき課題を、こうしめくくった。