2012年8月23日木曜日

日本は大国である「乗り遅れ論」は間違い

南北首脳会談の実現をはじめ、二〇〇〇年にはロシアのプーチン大統領が史上初めて北朝鮮を訪問した。オルブライト米国務長官の北朝鮮訪問も、国務長官としては初めてであった。また、中朝首脳会談も行われた。ドイツやイギリスなどの欧州諸国も、北朝鮮との国交正常化の意向を明らかにした。

こうした諸外国の首脳と金正日総書記の会談を見ていると、日本はなんとなく国際政治の潮流に乗り遅れたようにみえる。だが、これは朝鮮半島の国際政治について、これまでの経過を知らないか歴史の教訓を学んでいない「素人」の見解である。北朝鮮が大きく変わる可能性は、極めて少ないからである。朝鮮半島の対話には、「揺り戻し」と「冷却化」がつきまとうからである。

アメリカ国内にはなお民主化もせず人権問題をかかえる北朝鮮との急速な関係改善に批判的な論調も少なくなかった(ロサンゼルス・タイムズ紙など)。それだけに、アメリカの新政権での揺り戻しは必至である。

「日本乗り遅れ論」は、周辺諸国の北朝鮮との関係改善で、何かしらないが「立ち遅れた」とのいらだちに似た感情から始まっている。だが、冷静に考えてほしい。

「米朝や南北、露朝の首脳会談で何が変わったのか」特に、何も大きく変わってはいないのである。日本の損失につながることが、何か起きているだろうか。北朝鮮がアメリカや韓国、はてはロシアや中国と手を結んで、日本と対抗しようとしているわけではないのである。日本の国益には、まったく影響がないのである。むしろ、黙っていても朝鮮半島での戦争の危険が大きく後退し、日本の安全保障を取り巻く環境は何もしなくてもよくなっている。これほど効果的な外交はない。

と同時に、日本はアジア最大の経済大国である現実を忘れてはならない。日本の国内総生産(GDP)は約五〇〇兆円で、韓国はわずかに四〇兆円でしかない。北朝鮮は四兆円弱といわれる。経済大国である日本の協力なしには、新しい時代の北朝鮮の安定と平和は実現できないのだ。

この単純な「戦略」さえわかっていれば、日本が決して乗り遅れない現実を理解できるはずである。日本は、アジア最大の大国である。大国には、大国らしい外交と政策の理念が求められる。外交の基本原則なしに「乗り遅れ論」で外交政策を変えれば、周辺諸国はもとより相手にも軽蔑され軽く見られることになる。

最大の懸案は拉致問題

日朝正常化交渉は、二〇〇〇年四月に第九回会談として再開された。北朝鮮側の主張からすれば、再開された交渉はこれまでの交渉の連続であり、新たな議題は取り上げないことになる。また、拉致問題は議題にならず「戦後の償い」には応じるべきであるというのが、北朝鮮の立場である。これは、日本の政治家が与党訪朝団などの合意文書で北朝鮮側の主張を認めるような形式を受け入れてしまったためである。政治家の勝手な合意で、交渉に当たる外交官が国益を守るために苦労させられているのであ・る。

日本人拉致疑惑では、日本政府は七件一〇人の日本人が拉致された可能性が極めて高く、それなりの証拠があるとしている。公安警察は、一〇〇人近い日本人が、拉致されて北朝鮮にいるとの見方である。これに対し、日本の政治家の中には「拉致したという証拠ぱないではないか」と、北朝鮮と同じような主張をする人物もいる。これは、間違いである。原軟晃さん拉致事件は、工作員が自白し韓国で服役したのである。これは、「証拠」以外の何物でもない。また、欧州で行方不明になった日本人が、平壌で生活している事実も明らかになっている。

こうした事実を検証すれば、何らかのかたちで北朝鮮から出国できなくなっている日本人がいるのは事実である。こうした男女の全員が、文字通り「拉致」された人たちでぱないかもしれない。北朝鮮でいい仕事があると編されて、「自由意志」で北朝鮮に渡ったが、その後自由を奪われ工作員の教育係などをさせられているケースもあるだろう。

日本政府としては、こうした日本人の問題解決に北朝鮮が何らかの前向きの対応を示さない限り、日朝正常化はできないという立場である。これは、外交政策としては正しい対応である。日本政府が、日本国民の生命に重大な関心を寄せていることを、国民はもとより北朝鮮に十分に理解させることは、大切である。そうでなければ、日本政府は国民の信頼を失うからだ。

外交とはそうした基本原則は強硬に主張しながらも、現実的な解決策を模索するものである。とりあえずは、北朝鮮が「被拉致日本人」の生死について、公式・非公式を問わず通告することがこの問題を解決する「誠意」の表明になる。ただ、日本人拉致問題は金正日総書記が決断しない限り、解決はない。日本の指導者や首相の特使が、直接金正日総書記と話し合うことが、解決への唯一の道である。それまでは、交渉担当者は「拉致問題が前進しない限り、日本国民は日朝正常化を認めない」と言い続けるしかない。政治家は、そうした外交戦略を妨害し、利敵行為をしてはならない。外交交渉は、アメリカのように超党派で交渉担当者を支援するしかないのである。

村山訪朝団の真実・一九九九年一二月

村山富市元首相を団長とする超党派の訪朝団が、一九九九年一二月の初めに北朝鮮を訪問した。なぜ、訪朝したのか。新聞が報じた公式の名目は、日朝正常化交渉の再開に道を開くためであった。そして、日朝正常化交渉を無条件で再開するとの合意を発表したのであった。その後、日朝正常化交渉が再開されていることからすれば、村山訪朝団が日朝正常化交渉に道を開いたと考えてもよさそうである。新聞もそう報じているのだから。

ところが、真実は異なるのである。すでに明らかにしたように、日朝正常化交渉の再開は一〇月末にシンガポールで行われた日朝の北東アジア・日本課長会談で合意していた。それなら、なぜ発表しなかったのか。実は、まだ手続き上の問題を残していたのである。予備交渉の場所や、議題の内容などについても詰める必要があった。日本側には、拉致問題の進展を交渉再開の条件にしてきた経緯もあり、無条件での交渉再開の発表にはなんとなく抵抗感がめったのも否定できない事実であろう。

もう一つの問題は、制裁の解除であった。日本政府は、一九九八年八月のテポドン・ミサイル発射を受けた際に、北朝鮮に対する四項目の制裁措置を取ったが、このうち、KEDOへの協力が再開されていただけで、残りの制裁は継続されていた。外務省の当局者は、シンガポールでの秘密合意を受け、北朝鮮に強硬な自民党の有力政治家に制裁解除の根回しをしてみたが、反応はかんばしくなかった。

一方、日本の「北朝鮮族」と平壌の工作機関の責任者は、この秘密交渉の合意を聞いて驚愕した。その時まで、日本の政治家とこの責任者は「与党を中心とした訪朝団の実現」に力を注いでいた。ところが、なかなか金正日総書記の許可が下りなかったのである。北朝鮮側の責任者は、与党訪朝団を入れれば日本からコメ一○○万トンの支援を得られると、何度も上部に報告していたが、そうした成果を実現できないでいた。それも実現できないのに、外務省が正常化交渉を始めれば、自分たちの立場も体面も失われてしまう。

こうして、日朝の双方で「正常化交渉の道筋を付ける」芝居を打たねばならない人たちが訪朝団の派遣で協力し合うことになったのである。