2015年1月8日木曜日

冷戦後の自衛隊の変容

「協力の内容によっては、これを公表することにより、例えば米軍のオペレーションが対外的に明らかになってしまうといったことも考え得る。このような場合については、必要な期間、公開を差し控えていただくよう、協力要請の段階で、併せて依頼を行うことを考えている」と情報統制も示唆していた。第九条の規定は全国の地方自治体に不安と動揺を与え、二〇〇以上の県・市町村が反対や慎重審議決議を採択した。しかし国側は、国会審議で地方自治の尊重を強調しながらも、自治体や企業に、政府の「協力要請」や「依頼」への拒否権があるとは認めようとしなかった。この論点は、その後提案される「有事法制」、とりわけ「国民保護法」において、よりぬきさしならない国権対地方自治のかたちで議論の焦点となるものである。

以上みてきた冷戦後における日米安保協力、その下での自衛隊の変容は、それ以前の防衛論議を規定してきた憲法原則および政府解釈に大きな転換をもたらした。すなわち、自衛隊の任務は国土防衛に徹するものであって、個別的自衛権の範囲内で専守防衛を本旨とする受動的な防衛戦略に限定され、海外派兵は行ないえない。安保条約にもとづく日米軍事協力は、条約区域である「日本の施政の下にある領域」にかぎられるものであって、なんら領域外における義務を負うものではない。

自衛隊は自衛のための実力であって、必要最小限度の実力にとどめられ、国際法上の交戦権は行使できない。集団的自衛権の行使(他国の戦争への参加)は、憲法上許されない。一九九〇年代の自衛隊のあり方とは、これらの枠組みが崩れ、地域的に、また任務においてあいまい化し、アメリカの世界戦略変更にしたがって、自衛隊が、ふつうの軍隊に変化していく過渡期であった。そのうえを、二〇〇二年にはじまる小泉劇場の五年半が突っぱしり、さらには安倍首相の「戦後レジームからの脱却」へと、憲法破壊をより高次のものに押しならしていくのである。「一九九〇年代における日米安保協力の新たな枠組み」を年表化した。

「夫インド洋、妻はチモール」。こんな見出しの記事が自衛隊の準機関紙『朝雲』に載った。二〇〇二年九月のことだ。米軍のアフガニスタン攻撃を支援する「テロ特措法」制定、そしてインド洋への補給艦、護衛艦の出動。それによって海上自衛官の夫は対米支援任務に派遣される。一方、女性自衛官の妻は、おなじ時期を束チモールPKO部隊の一員として、やはり海外ですごす……。記事は、美談仕立ての夫婦共働き自衛官の別居生活を通じ、新世紀初頭における自衛隊活動の広がりを伝えていた。

この年、すなわち二〇〇二年、海外で新年を迎えた陸・海・空自衛隊員は二〇〇〇人以上にのぼった。クウェート、インド洋、ゴラン高原、東チモールなどだ。その後「インド洋津波支援」に派遣された部隊を加えると、自衛官約三〇〇〇人が、この年に国外に出たことになる。「海外派遣」は、もはや日常的な光景になった。とりわけ「イラク戦争」を境として、自衛隊の姿勢は、いちだんと高ぶり戦闘色をつよめた。そのしるしを、いくつかの事例でみておこう。二〇〇四年六月開かれた陸上自衛隊研究本部の「第三回研究本部セミナー」で、報告者の一人は、イラク派遣任務から今後学ぶべき課題を、こうしめくくった。