2012年8月23日木曜日

村山訪朝団の真実・一九九九年一二月

村山富市元首相を団長とする超党派の訪朝団が、一九九九年一二月の初めに北朝鮮を訪問した。なぜ、訪朝したのか。新聞が報じた公式の名目は、日朝正常化交渉の再開に道を開くためであった。そして、日朝正常化交渉を無条件で再開するとの合意を発表したのであった。その後、日朝正常化交渉が再開されていることからすれば、村山訪朝団が日朝正常化交渉に道を開いたと考えてもよさそうである。新聞もそう報じているのだから。

ところが、真実は異なるのである。すでに明らかにしたように、日朝正常化交渉の再開は一〇月末にシンガポールで行われた日朝の北東アジア・日本課長会談で合意していた。それなら、なぜ発表しなかったのか。実は、まだ手続き上の問題を残していたのである。予備交渉の場所や、議題の内容などについても詰める必要があった。日本側には、拉致問題の進展を交渉再開の条件にしてきた経緯もあり、無条件での交渉再開の発表にはなんとなく抵抗感がめったのも否定できない事実であろう。

もう一つの問題は、制裁の解除であった。日本政府は、一九九八年八月のテポドン・ミサイル発射を受けた際に、北朝鮮に対する四項目の制裁措置を取ったが、このうち、KEDOへの協力が再開されていただけで、残りの制裁は継続されていた。外務省の当局者は、シンガポールでの秘密合意を受け、北朝鮮に強硬な自民党の有力政治家に制裁解除の根回しをしてみたが、反応はかんばしくなかった。

一方、日本の「北朝鮮族」と平壌の工作機関の責任者は、この秘密交渉の合意を聞いて驚愕した。その時まで、日本の政治家とこの責任者は「与党を中心とした訪朝団の実現」に力を注いでいた。ところが、なかなか金正日総書記の許可が下りなかったのである。北朝鮮側の責任者は、与党訪朝団を入れれば日本からコメ一○○万トンの支援を得られると、何度も上部に報告していたが、そうした成果を実現できないでいた。それも実現できないのに、外務省が正常化交渉を始めれば、自分たちの立場も体面も失われてしまう。

こうして、日朝の双方で「正常化交渉の道筋を付ける」芝居を打たねばならない人たちが訪朝団の派遣で協力し合うことになったのである。