本来、政党助成金は企業・団体献金の廃止・縮小とワンセットになっていたはずだった。しかし自民党が過去五年間にやったことは、企業・団体献金収入を大幅に増やす、まったく逆の動きであった。
それどころか、同党政治改革本部は九九年十月二十五日の総会で、政党助成金を減額する代わりに、九五年一月施行の改正政治資金規正法に明記された政治家個人への企業・団体献金について、「施行五年後にこれを禁止する措置を講じる」とした付則九条を削除する方針を決めた。
法律の規定を反故にするこの決定に世論や野党は一斉に反発、あわてた自民党執行部は、政治資金規正法の規定に沿って二〇〇〇年一月から政治家個人への企業・団体献金禁止の方針を決めた。まことにお粗末としか言いようのない経過であった。
結局、政党への企業・団体献金はどうなるのか? 改正政治資金規正法は付則十条で、法施行後五年で個人献金の伸び具合や政党財政の状況をみて、企業・団体献金を見直すとうたっている。
だが、小渕首相は国会答弁で、「見直して削除もありうる」と、付則十条を削除して、企業・団体献金の永続化を図る方向を示唆した。さらに問題なのは、政党助成金総額を五年後に「見直す」とした政党助成金法付則六条についても、自民党が削除を画策していることだ。
もともと政党助成金は、政党の支持、不支持にかかわらず、政党への寄付を国民一人ひとりに強制する、憲法違反の国庫からの支払い行為である。
個人献金を増やす努力を怠り、政党への企業・団体献金を存続させ、政党助成金とともに懐に入れる「二重取り」は、それ自体が大きな問題をはらんでいる。
政党向け企業・団体献金と政党助成金はこの際きっぱりと廃止して、政治資金は個人献金一本に絞るべきだ。それが政治を浄化する最短の道である。
2015年2月5日木曜日
2015年1月8日木曜日
冷戦後の自衛隊の変容
「協力の内容によっては、これを公表することにより、例えば米軍のオペレーションが対外的に明らかになってしまうといったことも考え得る。このような場合については、必要な期間、公開を差し控えていただくよう、協力要請の段階で、併せて依頼を行うことを考えている」と情報統制も示唆していた。第九条の規定は全国の地方自治体に不安と動揺を与え、二〇〇以上の県・市町村が反対や慎重審議決議を採択した。しかし国側は、国会審議で地方自治の尊重を強調しながらも、自治体や企業に、政府の「協力要請」や「依頼」への拒否権があるとは認めようとしなかった。この論点は、その後提案される「有事法制」、とりわけ「国民保護法」において、よりぬきさしならない国権対地方自治のかたちで議論の焦点となるものである。
以上みてきた冷戦後における日米安保協力、その下での自衛隊の変容は、それ以前の防衛論議を規定してきた憲法原則および政府解釈に大きな転換をもたらした。すなわち、自衛隊の任務は国土防衛に徹するものであって、個別的自衛権の範囲内で専守防衛を本旨とする受動的な防衛戦略に限定され、海外派兵は行ないえない。安保条約にもとづく日米軍事協力は、条約区域である「日本の施政の下にある領域」にかぎられるものであって、なんら領域外における義務を負うものではない。
自衛隊は自衛のための実力であって、必要最小限度の実力にとどめられ、国際法上の交戦権は行使できない。集団的自衛権の行使(他国の戦争への参加)は、憲法上許されない。一九九〇年代の自衛隊のあり方とは、これらの枠組みが崩れ、地域的に、また任務においてあいまい化し、アメリカの世界戦略変更にしたがって、自衛隊が、ふつうの軍隊に変化していく過渡期であった。そのうえを、二〇〇二年にはじまる小泉劇場の五年半が突っぱしり、さらには安倍首相の「戦後レジームからの脱却」へと、憲法破壊をより高次のものに押しならしていくのである。「一九九〇年代における日米安保協力の新たな枠組み」を年表化した。
「夫インド洋、妻はチモール」。こんな見出しの記事が自衛隊の準機関紙『朝雲』に載った。二〇〇二年九月のことだ。米軍のアフガニスタン攻撃を支援する「テロ特措法」制定、そしてインド洋への補給艦、護衛艦の出動。それによって海上自衛官の夫は対米支援任務に派遣される。一方、女性自衛官の妻は、おなじ時期を束チモールPKO部隊の一員として、やはり海外ですごす……。記事は、美談仕立ての夫婦共働き自衛官の別居生活を通じ、新世紀初頭における自衛隊活動の広がりを伝えていた。
この年、すなわち二〇〇二年、海外で新年を迎えた陸・海・空自衛隊員は二〇〇〇人以上にのぼった。クウェート、インド洋、ゴラン高原、東チモールなどだ。その後「インド洋津波支援」に派遣された部隊を加えると、自衛官約三〇〇〇人が、この年に国外に出たことになる。「海外派遣」は、もはや日常的な光景になった。とりわけ「イラク戦争」を境として、自衛隊の姿勢は、いちだんと高ぶり戦闘色をつよめた。そのしるしを、いくつかの事例でみておこう。二〇〇四年六月開かれた陸上自衛隊研究本部の「第三回研究本部セミナー」で、報告者の一人は、イラク派遣任務から今後学ぶべき課題を、こうしめくくった。
以上みてきた冷戦後における日米安保協力、その下での自衛隊の変容は、それ以前の防衛論議を規定してきた憲法原則および政府解釈に大きな転換をもたらした。すなわち、自衛隊の任務は国土防衛に徹するものであって、個別的自衛権の範囲内で専守防衛を本旨とする受動的な防衛戦略に限定され、海外派兵は行ないえない。安保条約にもとづく日米軍事協力は、条約区域である「日本の施政の下にある領域」にかぎられるものであって、なんら領域外における義務を負うものではない。
自衛隊は自衛のための実力であって、必要最小限度の実力にとどめられ、国際法上の交戦権は行使できない。集団的自衛権の行使(他国の戦争への参加)は、憲法上許されない。一九九〇年代の自衛隊のあり方とは、これらの枠組みが崩れ、地域的に、また任務においてあいまい化し、アメリカの世界戦略変更にしたがって、自衛隊が、ふつうの軍隊に変化していく過渡期であった。そのうえを、二〇〇二年にはじまる小泉劇場の五年半が突っぱしり、さらには安倍首相の「戦後レジームからの脱却」へと、憲法破壊をより高次のものに押しならしていくのである。「一九九〇年代における日米安保協力の新たな枠組み」を年表化した。
「夫インド洋、妻はチモール」。こんな見出しの記事が自衛隊の準機関紙『朝雲』に載った。二〇〇二年九月のことだ。米軍のアフガニスタン攻撃を支援する「テロ特措法」制定、そしてインド洋への補給艦、護衛艦の出動。それによって海上自衛官の夫は対米支援任務に派遣される。一方、女性自衛官の妻は、おなじ時期を束チモールPKO部隊の一員として、やはり海外ですごす……。記事は、美談仕立ての夫婦共働き自衛官の別居生活を通じ、新世紀初頭における自衛隊活動の広がりを伝えていた。
この年、すなわち二〇〇二年、海外で新年を迎えた陸・海・空自衛隊員は二〇〇〇人以上にのぼった。クウェート、インド洋、ゴラン高原、東チモールなどだ。その後「インド洋津波支援」に派遣された部隊を加えると、自衛官約三〇〇〇人が、この年に国外に出たことになる。「海外派遣」は、もはや日常的な光景になった。とりわけ「イラク戦争」を境として、自衛隊の姿勢は、いちだんと高ぶり戦闘色をつよめた。そのしるしを、いくつかの事例でみておこう。二〇〇四年六月開かれた陸上自衛隊研究本部の「第三回研究本部セミナー」で、報告者の一人は、イラク派遣任務から今後学ぶべき課題を、こうしめくくった。
2014年12月4日木曜日
経済的奇跡
東南アジア諸国の工業化が本格化したのは一九八〇年代に入ってからのことであった。この時期、第二次石油危機により彼らの主要輸出先であった先進国経済の全体が低迷し、一次産品市況の停滞と世界的高金利がこれに重なった。その帰結として東南アジア諸国は経常収支の大幅な赤字化、対外債務の累増、財政赤字の巨額化に見舞われた。輸入代替から輸出志向に転じる構造転換はまったなしの状況となった。そうして保護主義的諸政策を転換するための一連の規制緩和がこの時期に開始された。
東南アジア諸国は政府の経済介入を抑制し、民間企業の活力と市場メカニズムを発揚させることによって資源配分の非効率性向上を狙った。この政策転換には高い評価が与えられねばならない。政策転換の過程で日本とNIESの投資が集中するという幸運にも恵まれ、その工業化は本格化した。一九八〇年代後半期以来の円高ならびにNIES通貨高により、東南アジア諸国工業製品の相対競争力が強化された。のみならず、日本・NIES企業の対東南アジア諸国投資が集中的に発生した。東南アジア諸国の輸出はこれにより一挙に増加した。NIESにつづく東南アジアの経済的奇跡の到来である。
東南アジアの政治システムはしばしば「開発独裁」と呼ばれ、「権威主義開発体制」と称される。確かにそういっていいであろう。植民地独立闘争を勝利に導いた軍・政治エリートがその実績を背景に強力な指導力を発揮して有能な官僚テクノクラート集団を創成し、後者に経済建設のための権力と威信を集中してことにあたらせた。このテクノクラートの作成した開発計画に向けて、企業家、労働者、経済資源を動員していくという集権的な開発体制がNIESはもとより東南アジア諸国でもとられた。
東南アジア諸国の政策転換能力の高さはこのテクノクラートの能力の高さを反映する。開発政策における試行錯誤がテクノクラートに豊富な経験とノウハウを蓄積させ、彼らを鍛えてきたのである。本章に収められているのは、長らくその発展の可能性に懸念がもたれてきた東南アジア諸国がいかにして今日を築いたのか、その発展の態様ならびに発展をもたらした政策や体制、さらには国際環境などについての著作に関する私の評である。東南アジア諸国の政治、経済、社会の矛盾について論じている著作もあるが、それらも矛盾のゆえに東南アジア諸国が停滞しているといった主張ではなく、発展の結果とした新たに生まれた矛盾についてのものがほとんどである。
顧みてこのことは画期的である。序章でも指摘したようにアジア論といえばすなわち停滞論だというのがつい先だってまでのことだったからである。停滞論の代表作を記しておけば、「構造の緩やかな社会論」「ソフトステート論」(ミュルダール『アジアのドラマー諸国民の貧困の一研究』一九七四年、板垣興一監訳、東洋経済新報社)、「小型家産制国家論」(矢野暢「東南アジアを解く小型家産制国家の理論」『中央公論』一九七九年三月号)のごとくである。
時代はやはり大きく変わったのだといわねばならない。後れて発展への胎動をみせているインドに関する著作への評も本章で掲載した。東南アジアについて論じた私の著作としては『成長のアジア停滞のアジア』(一九八五年、東洋経済新報社)、『アジア経済の構図を読む』(一九九八年、日本放送出版協会)などを参照されればと思う。一九九七年七月以降の東南アジア通貨・金融危機については別に論じる。
東南アジア諸国は政府の経済介入を抑制し、民間企業の活力と市場メカニズムを発揚させることによって資源配分の非効率性向上を狙った。この政策転換には高い評価が与えられねばならない。政策転換の過程で日本とNIESの投資が集中するという幸運にも恵まれ、その工業化は本格化した。一九八〇年代後半期以来の円高ならびにNIES通貨高により、東南アジア諸国工業製品の相対競争力が強化された。のみならず、日本・NIES企業の対東南アジア諸国投資が集中的に発生した。東南アジア諸国の輸出はこれにより一挙に増加した。NIESにつづく東南アジアの経済的奇跡の到来である。
東南アジアの政治システムはしばしば「開発独裁」と呼ばれ、「権威主義開発体制」と称される。確かにそういっていいであろう。植民地独立闘争を勝利に導いた軍・政治エリートがその実績を背景に強力な指導力を発揮して有能な官僚テクノクラート集団を創成し、後者に経済建設のための権力と威信を集中してことにあたらせた。このテクノクラートの作成した開発計画に向けて、企業家、労働者、経済資源を動員していくという集権的な開発体制がNIESはもとより東南アジア諸国でもとられた。
東南アジア諸国の政策転換能力の高さはこのテクノクラートの能力の高さを反映する。開発政策における試行錯誤がテクノクラートに豊富な経験とノウハウを蓄積させ、彼らを鍛えてきたのである。本章に収められているのは、長らくその発展の可能性に懸念がもたれてきた東南アジア諸国がいかにして今日を築いたのか、その発展の態様ならびに発展をもたらした政策や体制、さらには国際環境などについての著作に関する私の評である。東南アジア諸国の政治、経済、社会の矛盾について論じている著作もあるが、それらも矛盾のゆえに東南アジア諸国が停滞しているといった主張ではなく、発展の結果とした新たに生まれた矛盾についてのものがほとんどである。
顧みてこのことは画期的である。序章でも指摘したようにアジア論といえばすなわち停滞論だというのがつい先だってまでのことだったからである。停滞論の代表作を記しておけば、「構造の緩やかな社会論」「ソフトステート論」(ミュルダール『アジアのドラマー諸国民の貧困の一研究』一九七四年、板垣興一監訳、東洋経済新報社)、「小型家産制国家論」(矢野暢「東南アジアを解く小型家産制国家の理論」『中央公論』一九七九年三月号)のごとくである。
時代はやはり大きく変わったのだといわねばならない。後れて発展への胎動をみせているインドに関する著作への評も本章で掲載した。東南アジアについて論じた私の著作としては『成長のアジア停滞のアジア』(一九八五年、東洋経済新報社)、『アジア経済の構図を読む』(一九九八年、日本放送出版協会)などを参照されればと思う。一九九七年七月以降の東南アジア通貨・金融危機については別に論じる。
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