東独地域で予想を超えた規模での破談、が進行するなかで、西独地域では逆にインフレ圧力、が強力化してきた。まず第一の圧力は国内流動性の大幅な過剰創出であった。東独マルクが過大評価されて西独マルクへ切り替えられたため、当初から流動性過剰が見込まれてした。実際、通貨同盟の発足前における統一ドイツのM3ペースの流動性の増加状況の試算をみると、実質的な交換レートが一対二近くとなった。
だが、現実のM3は二割を超える著増となった。第二に、予想外の過剰創出となった国内流動性は、東独での西側製品に対する強烈な渇望を満たす動きと重なり、大幅な雷要の盛り上がりとなって出てきた。そして第三の圧力は、貢要増が言凧に増大するなかで、西独経済がフル稼働の状況下にあったことである。
日本と同様、西独も八五年秋のプラザ合意の後、金融面からは強い景気拡張効果を受け、長期の拡大局面にあった。これに東独地域からの大幅な追加的需要増加重なってきた。このため、生産設備の増強に向けて未曾有の投資ブームに拍車がかかることになった。こうした状況下では、国内でのインフレ圧力示顕現化するとともに、輸入増を反映して対外収支が大幅な悪化をみることになった。
東独経済の破綻が深刻化するなかで、匹独経済にインフレ圧力を課することになったもう一つの重大な要因は、財政面からの需要拡張効果であった。表は財政収支の状況をみたものである。再統一の前年となった八九年における西独の財政赤字は八〇億マルクにすぎなかった。
だが財政赤字は九〇年に四六〇億マルクへと拡大に転じた後、統一の影響か全面的に表面化した九一年には一〇八〇億マルク、そして九三年には一三四〇億マルクへと膨張した。九三年の財政赤字の対名目GNP比は五%に近づくほどになった。いうまでもなく、これはどの財政赤字はドイツにすれば空前の規模であった。
2014年5月22日木曜日
2014年5月2日金曜日
戦後日本人は頑張った
わずか半世紀前の敗戦直後は、ほんとうにひどかった。食べるものもなくて腹を空かすのが惨めなことは、言うまでもない。だが、ただそれだけではなかった。敗戦それ自体のショックがあり、敗戦に伴って、価値が一八〇度変わってしまったことが、ほんとうにつらかった。いったい何を信じて生きればいいのか、子どもはもちろん、大人たちにもよくわからなかった。学校の先生たちも、どこか投げやりだった。
その当時のエピソードとしていまもしばしば語られるのは、教科書の(アメリカ占領軍から見て)不適切な箇所を、墨で塗りつぶして消したことである。中学一年生だった私は、もちろんそれを経験した。新しく持ち込まれた民主主義が、教室で教えられた。私は、民主主義とは、いちおうはけっこうなものだとは思ったが、心からすばらしいとは思わなかった。民主主義の時代だというわけで、遠足の行き先まで生徒の投票で決め、「天の川」という票が出たこともあった。民主主義とはその程度の(いい加減な)ものだという感じは、いまも私の心のどこかに残っている。
何年ぶりかでアメリカ映画が入ってきて、現代劇を見ると、当時のアメリカ人の生活が手に取るようにわかった。民主主義とちかってこちらのほうは、ほんとうに夢のようにすばらしかった。私たち日本人も、いつの日かあのような生活ができるのだろうかと、私は時に考えた。「たぶんそんな日は永遠に来ないだろう」と考えて、妙に悲しかったことを、いまもはっきりと覚えている。当時、名古屋郊外の国道一号線で、キャッチボールをして遊んだ経験が、私にはある。モータリゼーションのいま、信じられないような話だが、モータリゼーション前は、車の数がそれほど少なかったのである。
それが、あっという間にアメリカに追いついてしまった。巨大都市の住宅のように、アメリカに見劣りする点も若干あるけれども(それにしても、アメリカの「郊外」の住宅は、いささか広すぎるのではないか)、治安がよくて夜も安心して一人歩きできることとか、商店のサービスのよさ・きめこまかさとか、社会の平等性など、日本のほうがいい点も考慮に入れて総合的に判断すると、日本の生活がアメリカにはるかに及ばないなどとは、いまやとうてい言えないだろう。つまり、大筋において、日本はアメリカと肩を並べた。
その当時のエピソードとしていまもしばしば語られるのは、教科書の(アメリカ占領軍から見て)不適切な箇所を、墨で塗りつぶして消したことである。中学一年生だった私は、もちろんそれを経験した。新しく持ち込まれた民主主義が、教室で教えられた。私は、民主主義とは、いちおうはけっこうなものだとは思ったが、心からすばらしいとは思わなかった。民主主義の時代だというわけで、遠足の行き先まで生徒の投票で決め、「天の川」という票が出たこともあった。民主主義とはその程度の(いい加減な)ものだという感じは、いまも私の心のどこかに残っている。
何年ぶりかでアメリカ映画が入ってきて、現代劇を見ると、当時のアメリカ人の生活が手に取るようにわかった。民主主義とちかってこちらのほうは、ほんとうに夢のようにすばらしかった。私たち日本人も、いつの日かあのような生活ができるのだろうかと、私は時に考えた。「たぶんそんな日は永遠に来ないだろう」と考えて、妙に悲しかったことを、いまもはっきりと覚えている。当時、名古屋郊外の国道一号線で、キャッチボールをして遊んだ経験が、私にはある。モータリゼーションのいま、信じられないような話だが、モータリゼーション前は、車の数がそれほど少なかったのである。
それが、あっという間にアメリカに追いついてしまった。巨大都市の住宅のように、アメリカに見劣りする点も若干あるけれども(それにしても、アメリカの「郊外」の住宅は、いささか広すぎるのではないか)、治安がよくて夜も安心して一人歩きできることとか、商店のサービスのよさ・きめこまかさとか、社会の平等性など、日本のほうがいい点も考慮に入れて総合的に判断すると、日本の生活がアメリカにはるかに及ばないなどとは、いまやとうてい言えないだろう。つまり、大筋において、日本はアメリカと肩を並べた。
2014年4月17日木曜日
問題多い養護学校の義務制化
福島県、とくにいわき市におけるウソのよう痙ポンドの話である。だが、いわき市の現状は、この国にあって決して特異的なものではない。むしろ典型的なものと考えるべきだろう。いわば、教育矛盾の集中的表現として、いわき市が存在しているといえるのである。「障害」児にも教育を受ける権利を保障しようと、一見美しい言葉によって、五十四年度からスタートする養護学校義務制化。しかしこれは、普通の学校で学びたいという子を「障害」児と決めつけ、養護学校という名の牢獄に送り込むためのアウシュビッツ型制度ではないのか。一九七一年六月、中央教育審議会は、「今後における学校教育の総合的左拡充整備のための基本的施策について」と題する答申を行なった。その左かで、「特殊教育の積極的な拡充整備」にも言及していたが、これが、養護学校義務制化の、直接の出発点であった。
答申を受けた政府は七三年十一月。「学校教育法中養護学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関すふ施行期日を定める政令」を公布。そこでは「学校教育法第二十二条第一項に規定する養護学校における就学義務並びに同法第七十四条に規定する養護学校の設置義務に関する部分の施行期日は、昭和五十四年四月一日とする」と述べられていた。ここで展開されている骨子は、「就学させる義務」と「設置義務」とであるが、これらについては、学校教育法のなかに明文化されている。つまり保護者の「就学させる義務」は、その子女が満六歳に達したときに生じ、満十五歳まで続く。就学させるべき学校は「小・中学校ないし盲・聾・養護学校の小・中学部のいずれか」であるとされている。一方、「設置義務」では、小・中学校は市町村に義務があり、盲・聾・養護学校は都道府県にある、と規定されている。
この学校教育法は一九四七年(昭22)三月三十日公布され、同年四月一日に施行された。「盲・聾・養護学校における就学義務および設置義務に関する部分の施行期日は政令で定める」とされ、それらの就学・設置義務の実施は一時的にペンディングとされた。そして、盲・聾学校の小学部は四八年四月から、同中学部は五四年四月から施行され。残ったのが養護学校(小・中学部)であった。これが七九年(昭和54)から施行されることに痙ったわけである。この間、文部省では「養護学校設置七年計画」(七二年-七七年)、「特殊学級設置十年計画」(七二年-八一年)、「特殊教育諸学校幼稚部学級設置十年計画」(同)を着々と進行させ、これらによって、中教審答申にある「特殊教育の拡充整備」はほぼ完了する、としている。
七一年当時、二百六十一校(生徒数約二万三千人)だった養護学校は、七五年五月には三百九十六校(約三万三千人)に増加しており、養護学校義務化が実施される直前の七八年度中には五百四校(約六万人)にふくれあがる予定になっている。事実、七一年に約二万一千人いた不就学児童が、七四年には約一万五千人に減っている(文部省調べ)。おそらくは、この間に増設された養護学校に就学したものと考えられる。ところで、この「昭和五十四年度養護学校義務制化」に対して現在、全国各地で「障害」児、教育労働者、市民、学生らを主体とする反対運動が幅広く、繰りひろげられている。養護学校義務制化とはいったいいかなる事態を意味するのか、また。「障害」者やその支援団体はいかなる論理で、これに反対しているのか。
そのことを、ただたんに現象的に見るだけでは座く、問いかけの内実を、具体的に考えていく必要がある。そのことが、この世の中に充満する「障害」者差別思想と、それを支える教育体制を打破する契機となり得るに違いないからである。「障害」児の権利奪った教育の歩み。養護学校義務制化に対しては、「各地に養護学校がたくさんできるから、従来、就学猶予・免除にされてきた子どもも教育が受けられるようになる」とか、「養護学校ができたら、その子の能力に応じた教育が受けられる。たんなる教育権ばかりか、実質としての学習権も保障される」という、肯定的な受けとり方もある。むろん、そのような側面もまったくないわけではないだろうが、問題を総体としてみれば、そのよう左肯定面はむしろ、付随的なものといわざるを得ない。
答申を受けた政府は七三年十一月。「学校教育法中養護学校における就学義務及び養護学校の設置義務に関すふ施行期日を定める政令」を公布。そこでは「学校教育法第二十二条第一項に規定する養護学校における就学義務並びに同法第七十四条に規定する養護学校の設置義務に関する部分の施行期日は、昭和五十四年四月一日とする」と述べられていた。ここで展開されている骨子は、「就学させる義務」と「設置義務」とであるが、これらについては、学校教育法のなかに明文化されている。つまり保護者の「就学させる義務」は、その子女が満六歳に達したときに生じ、満十五歳まで続く。就学させるべき学校は「小・中学校ないし盲・聾・養護学校の小・中学部のいずれか」であるとされている。一方、「設置義務」では、小・中学校は市町村に義務があり、盲・聾・養護学校は都道府県にある、と規定されている。
この学校教育法は一九四七年(昭22)三月三十日公布され、同年四月一日に施行された。「盲・聾・養護学校における就学義務および設置義務に関する部分の施行期日は政令で定める」とされ、それらの就学・設置義務の実施は一時的にペンディングとされた。そして、盲・聾学校の小学部は四八年四月から、同中学部は五四年四月から施行され。残ったのが養護学校(小・中学部)であった。これが七九年(昭和54)から施行されることに痙ったわけである。この間、文部省では「養護学校設置七年計画」(七二年-七七年)、「特殊学級設置十年計画」(七二年-八一年)、「特殊教育諸学校幼稚部学級設置十年計画」(同)を着々と進行させ、これらによって、中教審答申にある「特殊教育の拡充整備」はほぼ完了する、としている。
七一年当時、二百六十一校(生徒数約二万三千人)だった養護学校は、七五年五月には三百九十六校(約三万三千人)に増加しており、養護学校義務化が実施される直前の七八年度中には五百四校(約六万人)にふくれあがる予定になっている。事実、七一年に約二万一千人いた不就学児童が、七四年には約一万五千人に減っている(文部省調べ)。おそらくは、この間に増設された養護学校に就学したものと考えられる。ところで、この「昭和五十四年度養護学校義務制化」に対して現在、全国各地で「障害」児、教育労働者、市民、学生らを主体とする反対運動が幅広く、繰りひろげられている。養護学校義務制化とはいったいいかなる事態を意味するのか、また。「障害」者やその支援団体はいかなる論理で、これに反対しているのか。
そのことを、ただたんに現象的に見るだけでは座く、問いかけの内実を、具体的に考えていく必要がある。そのことが、この世の中に充満する「障害」者差別思想と、それを支える教育体制を打破する契機となり得るに違いないからである。「障害」児の権利奪った教育の歩み。養護学校義務制化に対しては、「各地に養護学校がたくさんできるから、従来、就学猶予・免除にされてきた子どもも教育が受けられるようになる」とか、「養護学校ができたら、その子の能力に応じた教育が受けられる。たんなる教育権ばかりか、実質としての学習権も保障される」という、肯定的な受けとり方もある。むろん、そのような側面もまったくないわけではないだろうが、問題を総体としてみれば、そのよう左肯定面はむしろ、付随的なものといわざるを得ない。
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